ケネス・ヘーゲンの間違いの事実

ケネス・ヘーゲンの間違い、イエスは霊的に死んだ?

☆信仰のことば、ワードフェイスを教えていた、ケネス・ヘーゲンの教えの中に聖書とは異なる教えがある事が判明したので公開します。

<信仰のことばの教え>
「信仰のことば運動」とは、ペンテコステ派を中心に、1980年頃にアメリカのケネス・ヘーゲン牧師が教え始めた運動の一つです。御言葉への信仰を強調するので、ワードフェイスと呼ばれ、信仰のことば運動とも呼ばれていました。この教えの一つには繁栄の福音と呼ばれているものもあり、裕福な生活が神の祝福であり、信仰により得られるとも教えられていました。さらに問題は主の十字架の贖いについて、「イエスは霊的に死んだ」と言う聖書から逸脱した教えがある事が問題です。

<偽りの教え>
繁栄の福音を教えている教師たちがいます。ケネス・ヘーゲン、ケネス・コーポランド、フレッド・プライス、ベニーヒン、ジョイス・メイヤーなどです。これらの人たちは、イエスは十字架上でご自身の働きを完成されなかったと教えている事が問題です。「イエスはサタンの性質をご自身に受け、地獄に行き、そこで三日間苦しみを受けた。その後イエスは地獄で新しく生まれた。その後に悪魔を滅ぼし、御父の元に戻った」と教えるのです。
以下、彼らの教えたものを引用して、この証拠を挙げます。
―引用―

<ケネス・へーゲン>
『霊的な死とは神から離される以上の事を意味する。また霊的な死はサタンの性質を持つ事をも意味する…イエスは死――霊的な死――を全ての人の為に味わわれた』 K. Hagin, The Name of Jesus, 1981) p.31.
『永遠の命を受ける事が、私たちの内に神の性質を受けるのと同じように、霊的な死とはサタンの性質を受ける事を意味する』
K. Hagin, Redeemed, Tulsa, OK, Faith Library, 1966, p.29
『彼(イエス)は全ての人の為に霊的な死を味わわれた。そして彼の霊と内なる人は私の代わりに地獄に行かれた。分かるでしょうか。肉体的な死はあなたの罪を取り去りはしない事を!彼は死を全ての人の為に味わわれた。彼は霊的な死について語っておられた』
(How Jesus obtained his name tape # 44HO1 side 1)

<ケネス・コープランド
『イエスさまが「完了した!」と叫ばれた時、それは贖いの計画に関してではなかった。彼が御座に至るまで、まだ三日三晩あった。彼はアブラハムの契約について語っておられた。イエスの十字架上での死は、ただ完全な贖いのわざの始まりにしか過ぎなかった』 (Kenneth Copeland, "Jesus - Our Lord of Glory", ( Believer's Voice of Victory, April, 1982, p. 3).
『彼(イエス)は悪魔に地獄の深みまで連れて行かれるのをお許しになった…彼はサタンの支配下に置かれる事を許された…地獄の全ての悪霊が彼を滅ぼすために彼の上に来た…悪霊たちは私たちが誰も想像できないほどまで彼を苦しめた。三日間彼は極限まで苦しまれた』
(Kenneth Copeland, "The Price of It All," 3.)
『三日間彼は極限まで苦しみを受けた。ある人たちはこれを信じようとしない。彼らは、イエスが死なれた後に、聖書でパラダイスと呼ばれているシェオル(よみ)の上の部分にただ留まっていたと信じたがっている。しかしなんと誤った考えだろうか!もし彼がただそこに留まっているだけならば、罪のための代価は何も支払われなかったのだから』
(Believer's Voice of Victory, Vol. 19, No. 9, Sept. 1991)
『…イエスは二度死なれた。彼は肉体的に死なれ、霊的にも死なれた。イエスが罪となられた時、神と離され…彼の血が注ぎだされた時、それは贖いの力を持たなかった。それは私たちに敵対する律法の戒めを追いやったが…イエスはこの地の深みでひどい三日三晩を過ごされ、私たちの神と共にある権利と一緒にあなたや私の為に戻って来られた…』
(doctrinal statement dated March 12, 1979)

<フレッド・プライス>
『私たちの罪の為の刑罰が十字架上での死だと思うのですか?もしそうなら、二人の盗人でさえも私たちの代価を支払えたでしょう。違います。刑罰は地獄そのものに行くことであり、地獄で神と引き離された時間を過ごすことなのです』(Frederick K. C. Price, Ever Increasing Faith Messenger, June 1990, p. 7)
ベニー・ヒンやジョイス・マイヤー、その他の信仰のことばを教える教師たちはみな、時は違えど、この偽りの教えを表明しています。

<なぜこれが偽りの教えなのでしょう?>
「イエスは霊的に死なれた」という教えは非聖書的である為に偽りのものです。以下に記された聖書箇所は全て、主イエス様の十字架の贖いは主イエス様の十字架の死と流された血である事を言っています。しかし、ヘーゲンは霊的死と言い、聖書とは異なる事を言っています。
この聖書の御言葉とヘーゲンの言う霊的死を比べてみれば、明らかに聖書とは異なる事が分かります。聖書は罪をどこで贖われたのかという質問を自分自身に問いかけてみて下さい。十字架上で血が流された時か、または悪魔によって地獄で苦しみを受けた時でしょうか?
『ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。』ローマ5章9節
『この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによる事です。』エペソ1章7節
『しかし、以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリスト・イエスの中にある事により、キリストの血によって近い者とされたのです。』エペソ2章13節
『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子の為に和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。』コロサイ1章20節
『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。』ヘブル9章14節
『それで、律法によれば、全てのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎだす事がなければ、罪の赦しはないのです。』ヘブル9章22節
『ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとするために、門の外で苦しみを受けられました。』ヘブル13章12節
『ご承知のように、あなた方が父祖伝来の空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』1ペテロ1章18節、19節
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、』黙示録1章5節後半
『彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのに相応しい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、』黙示録5章9節
『自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。』ピリピ2章8節
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』ヘブル12章2節
『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、癒されたのです。』1ペテロ2章24節

明らかにイエスは私たちの罪の贖いを十字架上でなされ、地獄においてではありませんでした。息を引き取られる直前彼は「完了した」(ヨハネ19章30節)と叫ばれました。ギリシア語の意味するところは「負債が完全に支払われた」と言うものです。もし贖いがまだなされていなかったのなら、この箇所は意味を持たなくなります。
ケネス・コープランドはこれをアブラハムの契約の終焉だと主張しています。ケネス・コープランドアブラハムの契約が永遠に続く契約である事を分かっていなかったようです!それはキリストが十字架上で死なれた時に終わりはしませんでした。神のアブラハムの子孫への約束は、これまでそうであったように今日も真実なものです。キリストは十字架上でモーセの契約を果たしました。
何が終わったのかというと、神の怒りが私たちの代わりにキリストに降り注がれたからです。これと、主の日に最期の天使が怒りの鉢を地に投げ捨てている黙示録16章17節を比べてください。「完了した」その時、負債が“完全に支払われた”ので、キリストは『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23章46節)と祈る事ができたのです。

<よみでイエスは何をしていたのでしょう? >
聖書のどこにも、イエスが私たちの罪を贖う為に地獄で苦しまれたという箇所はありません。
1ペテロ3章18節から19節ではこうあります
『キリストも一度罪の為に死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の御許に導く為でした。』
(注意してほしいのが、イエスは肉おいては死に渡されたが、霊においては生かされたとあり、苦しまれたのではありません)
『その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、御言葉を語られたのです。』
キリストはよみにいる者たちの為にそこへ下り、福音を宣べ伝えられました。そこで恐らく十字架の奥義を説明されたことでしょう。邪悪な者(ペテロはノアの日に罪を犯した天使たちが縛られていると語っています)と義なる者(イエスは捕われの者たちを引き連れました エペソ4章8節)に対してです。キリストはアブラハムと共に待っていた者たちを神の右の座に連れて行かれたのです。

<サタンの性質?>
信仰のことばを教える教師たちは、イエスが自分にサタンの性質を受けたと主張しますが、聖書は反対の事を教えています。
『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする事でしょう。』ヘブル9章14節
ここで捧げられたと書かれてあるのは、キリストの血であり、彼の霊が私たちの良心をきよめる(また罪を取り去る)のではありません。またイエスは傷のないご自身を捧げられました。聖書が「傷のない」と書いているのに、イエスがサタンの性質を受けたと教える事は何と冒とく的な事でしょう!
『ご承知のように、あなた方が先祖から伝わった空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』1ペテロ1章18節、19節
私たちが贖いを受けたのはサタンの性質(サタンの霊)によるのではなく、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によった」のです。
「レット・アス・リーズンミニストリーズ」のマイク・オッペンハイマー(Mike Oppenheimer)は次のように書いています
『罪の為の捧げ物の動物は全てキリストの象徴です。レビ記4章3節は欠陥のない雄牛であり、レビ記4章23節は傷のない雄やぎ、4章32節は傷のない子羊でした。それらは傷や欠陥がないか念入りに調べられました。1コリント5章7節からイエスは過越の子羊だと分かります。贖罪のやぎになされた身代わりのいけにえの考えは、ささげる者がいけにえの動物の頭に手を置き、罪と罪過を象徴的に移すということでした(レビ記4章4節、24章33節)。そのいけにえは罪を覆うものとなり、神は罪ではなく、その流された血を見られたのです。イザヤ53章6節では「…主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。キリストの上に手を置いたのは御父であり、私たちの代わりに彼が裁かれるためにそうなされたのです。そのいけにえの動物自体は罪になったのではなく、象徴的に罪を着せられたのであって、もしそれに傷があったり、罪に関わっていたりすると価値が無くなりました。』
ケネス・コープランドは幻の中でイエスと十字架について話し合ったと主張しています。『神の義は罪とされた。彼はご自身の霊においてサタンの罪の性質を受け入れた。そうした時、彼は叫んで「わが神、わが神、わたしをなぜお見捨てになったのですか」と言われたのだ。私たちは十字架上で何が起こったかを分からない。モーセは、神の命令を受けて、なぜあの棒の上に子羊でなく、蛇を掲げたのだろうか?その事は私を悩ませた。「一体なぜサタンの象徴である、蛇をそこで掲げたのだろうか?なぜ子羊ではなかったのか」そして主は言われた、「それは、サタンが十字架に掛けられたというしるしだからだ」彼(イエス)は言われた、「わたしは自分の霊において、霊的な死を受け入れた。そして光が消えた」』(Kenneth Copeland, What Happened From the Cross to the Throne? cassette tape 1990, Side B).
すべて木に吊るされるものは呪われる。これはキリストが十字架上で私たちの罪のために神に呪われた事を示す十字架の象徴です。サタンの性質を受けたなんてことはなく、キリストは父の御心に完全に従順でした。
『キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。』ピリピ2章8節

<罪を知らない方を罪とされ>
『神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。』2コリント5章21節
キリストは罪の為の捧げ物として見なされていました。この箇所で“された”と訳されている言葉は、マタイ7章2節で、あなたがたが量る通りに、あなた方も量られると書かれている言葉と同じです。それは人が良くなるよう強制するのではなく、良い人であるかのように扱うということです。
<この教理の由来>
この「イエスは霊的に死んだ」という教理はよくクリスチャン・サイエンスと“新しい思考(New Thought)”を教えるE・W・ケニヨンから来たと説明され、指摘されています。ケネス・ヘーゲンはそれを彼からただ直接コピーしただけだと一般的に考えられています。これは真実かもしれません。ヘーゲンは時折、ケニヨンの書いたものを一字一句コピーし、それを自分に与えられた「キリストの個人的な啓示」にまで当てはめています。しかしジョン・カルヴァンでさえ、この「イエスが霊的に死んだ」という考えを示唆していることは注目に値するものです。
『もしキリストが肉体的な死を耐え忍んだだけなら、何事も達成されていない。私たちと神の怒りの間に介入する為に、またその義なる裁きを正当化する為には、彼は神の復讐の重さを実感することが必要だった。そのため、彼は地獄の力と永遠の死の恐怖との接近戦を戦うことが必要であった』John Calvin, Institutes of the Christian Religion, II.16.10.
ある人はこのような文書から、ヘーゲンは異端的ではなく正統的なものに戻ったのだと議論しますが、私たちが覚えておくべきなのは、異端とはキリスト教徒が歴史的に信じてきたことから離れることではなく、神のことばから離れることであるということです。どの程度までこれをカルヴァンが教えていたかは分かりません。しかし一つの事が確かです。ヘーゲンと“繁栄の信仰”の教師たちが教えているこの教理は、十字架の有効性を否定するということです。これはイエスの贖いのわざを十字架の後に位置付けます。またこれは純粋で聖なる神にサタンの性質を着せるものなのです。
<この教えはどこに至るのでしょうか?>
『なぜ彼(イエス)は人として生まれる必要があったのか?それは彼が私たちのように、神と離された状態になるためだ。彼は全ての人の為に霊的な死を味わわれた…イエスこそが史上初めて新生したお方なのだ』(K. Hagin, How Jesus Obtained His Name, Tulsa: Rhema)
ケネス・コープランドはこれを論理的な結論に持っていきます。イエスは地獄で苦しみ、地獄で新生した(もちろんこれを支持する聖書箇所はありません)。それゆえ、イエスは新生した人として悪魔に打ち勝った。ケネス・コープランドは新生した人だと自称しています。それゆえ、ケネス・コープランドはイエスの代わりに十字架上で死ぬ事もできたと教えるのです。なんとばかばかしい教えでしょう。コープランド自身の言葉を読んでみてください。
『神の霊が私に語りかけて言われた、「子よ。これを知りなさい。これについて私に従い、あなた方の伝統につまづかされてはいけない」彼は言われた。「このように考えなさい――二度生まれた人は彼自身の領域でサタンを打ち負かした」そして私は聖書を投げ出して…言った。「どのような事ですか?」
 彼は言われた。「新生した人がサタンを打ち破った。多くの兄弟たちの長子が彼を打ち破ったのだ」彼は言われた。「あなたこそがその体現であり、先のものの写しなのだ」私は言った。「あなたはもしかして、こう言いたいのではありませんよね。私は同じ事を出来たなんて事を」彼は言われた。「そうだ。彼が持っていたような神のことばの知識をあなたが持っていたなら、同じことも出来ただろう。“なぜならあなたも一人の新生した人だからだ”』(Kenneth Copeland, Substitution and Identification (Kenneth Copeland Ministries, 1989), tape #00-0202, side 2.)
あなたがその知識を持っていたなら…神と同じことを出来ただろう…誰がそれを言ったのでしょう?神の霊でしょうか、それとも悪魔の霊でしょうか?『あなた方がそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなた方が神のようになり、善悪を知るようになる事を神は知っているのです。――蛇』創世記3章5節
従って、彼らは人を神の地位まで押し上げています。これは信仰のことばの神学の他の側面とも一致しています。ポジティブな告白、私たちのことばが現実を創造する(神にしかできないことです)、神は私たちの祈りに答えなければならない信仰の法則に縛られている(これを教える人はマルコ11章22節を曲解し、“神に信仰を持つこと”とはせず、神が信仰を用いたと考えます)。
<結論>
私たちは、自分たちの罪を除き去るイエスの贖いの血に信仰を持たなければなりません。全ての明確な新約聖書の教えはこの事実を指し示し、旧約聖書の全ての象徴もそれを教えています。この最も重要な教理から離れる事は異端であり、十字架を否定し、冒とくと人の神格化へと至らせます。
『イエス…は新生した人として復活された…私は新生した人がサタンと地獄、死に打ち勝ったと気付いた時、とても興奮した… !』
(Believer's Voice of Victory , September, 1991)
『私が提示しているこの真理を信じない限り、誰も天国に行く望みは持てない。イエスがあなたの代わりに地獄へ行かれた事を心を尽くして信じない限り、あなたは天国には行く事が出来ない』☆これはジョイス・メイヤーです。
(Joyce Meyers, the Most important decision You will ever make 1991
マイク・オッペンハイマー(レット・アス・リーズンミニストリーズ)からの資料提供を深く感謝しています。

☆以上の事が最近ネット上に掲載され、私は今まで長く、ケネス・ヘーゲンの本の翻訳したものを ブログに掲載してきましたが、聖書から逸脱しているものを掲載する事はできなくなり、掲載 を取り止めます。ケネス・ヘーゲンのものだけです。
 このような訳なので、御理解いただきますようにお願いします。

10.10.27日   faith_hoshino