私なりの十字架理解とヘーゲン異端の意見

       私の十字架理解とヘーゲン批判

        私なりの十字架理解とヘーゲン異端の意見

 最近、モリエル・ミニストリーからケネス・ヘーゲンの教えの識別の一つとして、異端を教えているとネットに書かれています。
 私は今まで、私の霊的理解について一切書く事をせす、そのまま批判を批判のままブログにも知り合いにもお送りし、みなさまの意見を求めました。
それはそれぞれが本当は何を信じているのか、御言葉をどのように霊的に理解しているのかを多くの人たちの意見を求める為でした。しかし、ほとんどヘーゲンの異端について、批判についてのご意見が私に来ません。そこで私のヘーゲンを通しての、御言葉の霊的理解を書きます。

<十字架の霊的理解>
 主イエス様の十字架は神の義に従って、罪の刑罰として、律法によれば罪の刑罰は死で、それが神の義です。もし神が人の罪をそのまま許したのなら、神は確実に不義になります。十字架は罪を許したのではなく、罪を許さなかったから、神の義を執行され、罪の刑罰の死刑を執行されたのです。
 四福音書をまとめると十字架は6時間あり、前半の3時間は人が主を十字架に架けられた面が書かれています。
後半の3時間は神が主を十字架にかけられた面が書かれています。なぜなら、全地が暗く、地震、幕が真っ二つに裂けるなど、神のみわざだから。
 主イエス様の十字架にも肉体の面と霊の面があります。なぜなら人は霊、魂、身体によって構成されているからです。
 しかし、罪の全くない主イエス様は槍で刺されても切り刻まれても、死ぬ事が出来ません。なぜなら、死は罪の結果であると聖書が言っているから。
ローマ5:12 そういうわけで、丁度一人の人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、・・それというのも全人類が罪を犯したからです。
 この世の知識と知恵では人が死ぬのは当たり前ですが、神であられる主イエス様、真の人であられる主イエス様は霊的視点により考えなければならないのです。罪がないのでどんなに切り刻まれても死ぬ事は出来ません。死は罪の結果であると聖書が言っているからです。
 従って、モリエル・ミニストリーの批判、霊的死が異端と考えるなら、この点が矛盾していて、霊的死がないのなら、肉体の死、つまり十字架の死は有り得ない事が全く理解されていないと思われます。
 さらに、罪を神の第二の位各であられる主イエス様が父と分離しないまま背負うなら、父なる神も聖霊様も三位一体であられ、背負う事になり、父なる神が罪とされるとモリエルの批判は言っている事、これは異端の考えです。
 私の霊的理解は父なる神と主イエス様が分離した時にのみ私たちの罪を背負う事で、主イエス様にだけ罪を背負う事が出来るのです。その為には絶対条件として、父なる神と御子イエス様が分離されなければならないのです。

<霊的分離、霊的死>
 その霊的分離を聖書では霊的死と呼んでいます。例えばヤコブ2:26
ヤコブ2:26 魂を離れた身体が、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
この御言葉は魂と身体が分離したものを死と呼んでいます。信仰と行いが分離したものを死んだ信仰と呼んでいます。これが聖書の死なのです。
 では主イエス様と父なる神が分離したので、主イエス様にだけ、私たちの罪を負い、担い、罪を負われたので初めて肉体の死が可能になったのです。
 モリエルの批判のまま、霊的死は異端であると考えるのなら、霊的分離がないままに私たちの罪が主イエス様に背負わされるなら、三位一体の神全体が人の罪を背負って、神が罪となられてしまう。この考えこそが異端の考えなのに全く気付いていないのです。
 ジェフトゥール氏、森大輔氏はほとんど十字架の意味が全く理解されていないのだと思います。ヘーゲンを異端と言っておきながら自分の考えが異端になっている事にさえ気付いていない。自分が知らなければならない事でさえ知らない、霊的に理解していないのかも知れません。
ユダ8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体
汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
ユダ18 終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
ユダ10 しかし、この人たちは、自分には理解もできない事を謗り、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。

 主の十字架はまず霊的分離が行われ、主イエス様が父と分離され、その分離の事を霊的死と聖書は呼び、その単独の状態で私たちの罪を背負い、その時の言葉が「我が神、我が神、なぜ私をお見捨てになられたのですか?」です
マタイ27: 46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
マルコ15: 34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

 ここでさらに私たちと「共に」と聖書は書かれ、私たちと主イエス様が一つにされた事が書かれ、私たちも共に十字架の死に預かった事が書かれています。さて質問は、どの時点で私たちと主イエス様が一つにされたのですか?
 もし十字架の初めとか中頃に私たちと一つになったとしたら、私たちは主イエス様と共に十字架の贖いを達成した者となってしまいます。従って、私たちは贖いには関わらないで、それでも十字架の死に預かる時点に私たちと主は一つになり、共に十字架で共に死にと聖書が言う事が出来るには、これはまさに死の瞬間でなければならない事が明確に分ります。
 私の専門は電子工学、電子計算機ですが、その緻密さよりも主イエス様の十字架の緻密さの方がさらに正確無比に構成されている事が分かります。
 ここで、もしと言う仮定を想定して見ましょう。もし霊的死がなければ、
マタイ27: 46 三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。
 この言葉の意味が全くなくなってしまいます。分離していない、霊的死がないのに、主イエス様がどうして私をお見捨てになったのですかと主イエス様が言われたのなら、主イエス様の言葉、聖書の言葉は偽りとなってしまいます。つまりモリエルのジェフトゥールの言う、霊的死が異端であるが正しいのなら、聖書の主イエス様の言葉が偽りと言っています。
つまりジェフトゥールは自分の発言によって自分自身が聖書を信じない者だと宣言しているのです。聖書と主イエス様の言葉に反する事を批判として言うのならそれこそが異端なのです。
 この複雑怪奇な十字架の各場面を聖書全巻から解明かすには理解力、分析力が必要で、無理なのかも知れません。
 もし霊的死がなく、父と御子の分離がなされないままで、十字架の贖いが行われたのなら、まず、私たちの罪が背負わされ、担い、三位一体の神が罪となってしまいます。さらに、主イエス様が贖い主、救い主だけではなく、三位一体の神全体が救い主、贖い主となってしまいます。
 つまりジェフトゥール氏の考えなら、聖書から逸脱してしまい、父なる神も罪となってしまうし、贖い主になってしまうのです。
 私はモリエル・ミニストリーのヘーゲンの霊的死が異端であるとの批判について、四福音書の十字架の箇所を全て並べて祈り、聖霊様に教えて下さるように祈り、その結果、これらの真理が教えられました。
 これらを私に教え導かれたのは、私の内なる聖霊様です。全ての栄光を主にお返しします。御霊の事は御霊によって解くのです。

<私たちがキリスト>
 十字架の死おいて、私たちの罪だけを主イエス様が負い、担い、と取る事も出来ますが、さらに私たちもキリストと共に十字架で死に、共に復活しとも聖書は書かれています。この御言葉はキリストが人になられ、十字架に掛かられた時、私たちとキリストが一つにされた事を聖書は言っています。それを聖書は「共に」と言う言葉で表現しています。
 このキリストと共にと言う言葉を最初に解き明かしたのはEWケニヨン牧師であり、ヘーゲンが常にケニヨンの本から引用している事は知られています。この批判もクリスチャン・サイエンスであるとか、ニューエイジとかの批判があります。しかし、このEWケニヨンの「私たちはキリストと同一」と言う本も私たちが翻訳し、多くの人たちに配りました。それを読んでもらうなら、彼がクリスチャン・サイエンスなどと言う事はなく、ニューエイジであると言う事も無い事が明確に分ります。
 この本の中味をごく簡単に説明します。
ガラテヤ2:20 私はキリストと共に十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
この御言葉がパウロの持っていたキリストとパウロの関係についての霊的理解の関係についてパウロが述べています。
 しかし、もし私たちがこの世の知識、知恵によって理解しようとしたなら、この御言葉を理解する事は出来ません。私はキリストと共に十字架につけられましたが、全く理解不能と思います。
 ここに信仰と言う神の要求する唯一の鍵を用いる事が出来る人にはこの御言葉をただ信仰によって霊的に理解する事が出来ます。
 私が共に十字架につけられたのなら、私は死んでいます。そして、私は信仰によって生きています。信仰によって、私の内なるキリストに明け渡し、委ねています。ですからキリストが私の内に生きておられるのです。
 これがパウロの信仰であり、聖書の御言葉である以上、私たちも同様に内なるキリストが生きて下さる事をただ信じて、生きる事が出来るのみです。
 ここで質問をします、信仰の世界において、私は生きているのですか?
いいえ、私が生きるのなら、アダムの汚れと腐敗しか出てきません。考える事は全て肉の思いであり、情欲、食欲、目の欲、名誉欲、金欲しか考えません。ただ聖霊様と一つのキリストが生きて下さる時だけが、永遠の命によって生きている時だけが父の御心を行う事が出来ます。
 言い換えるなら、私はただ信仰だけによって生き、私はキリストと共に十字架で共死に、共に復活し、新しい新創造としてキリストの命の力によって生きています。 (質問)それなら、誰が生きていますか?  
(答え)それは内なるキリストが生きておられます。
 つまりアダムの子孫として汚れと腐敗だけしか出来ない存在として生まれ、信仰により新しく生まれ変わり、内なるキリストが生きて下さるようになったのが信仰によるクリスチャンです。
 この姿を信仰の告白として言うのなら、アダムとして生き、キリストと一つになり、キリストを主として、キリストの支配下に行き続けています。
つまり私ではなく、キリストとして信仰により生きているのです。
 この事を聖書ではキリストに在ると言う言葉によって教えています。
キリストに在るとは、キリストのご支配の下にあって信仰によって生きていると言う意味です。それは私ではなく、キリストの命、聖霊様の導きと教えの支配下に生きる事であり、もはや私、人間、生まれつき、アダムのものではないのです。
 それはキリストを主とする、頭はキリストであり、私は肢体に過ぎない、私はキリストと共に十字架で死に、キリストが私の内で生きておられるのです。
 このままでは啓示がなければ分からないと思います。
逆から考えて見ます。もし私たちが人間のままであるのなら、その命は生まれつきの命のままに生きているのです。それを聖書の御言葉は肉によって生きる者と呼んでいます。もし母から生まれたままの生まれつきの人間として生きているのなら、肉によって生きる者が神の国を継ぐ事が出来ないと書かれています。
ガラテヤ6:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にもあらかじめ言ったように、私は今もあなたがたにあらかじめ言っておきます。こんな事をしている者たちが神の国を相続する事はありません。
もし私たちが私たち自身のまま、単なる人間として、生まれつきの命によりただ聖書を読み、知り、理解して、それを生まれつきの命によって行おうとして生きているのなら、旧契約の生まれ変りをしていない人たちの生き方であり、肉の行いとしかなりません。神の国を相続する事がありません。
 私はEWケニヨンの教える通り、私とキリストが常に一つになって生きるしか方法がありません。キリストの命に頼る、信じるしか生きる事が出来ません。私が生きたくありません。なぜなら、情欲、物欲、金欲、などしか考えられないからです。私は常にキリストに生きていただいています。
 つまり私は信仰によって十字架で死に続け、常にキリストに、内なる聖霊様の導きと教えと、命を与える霊として生きていただいています。
 ですから私は、私ではなく、キリストであるとただ信仰によって、言う事が出来ます。アダムに死に、キリストに似た者として生き続けています。
 もし私にキリストの命を信じなく、聖霊様の導きも信じなく、教えも信じないのなら、私はただの人間に過ぎません。必ず再臨に取り残され、地獄に落ちる事でしょう。
ユダ1:3 愛する人々。私はあなたがたに、私たちがともに受けている救いについて手紙を書こうとして、あらゆる努力をしていましたが、聖徒にひとたび伝えられた信仰のために戦うよう、あなたがたに勧める手紙を書く必要が生じました。
ユダ1:4 というのは、ある人々が、ひそかに忍び込んで来たからです。彼らは、このような裁きに会うと昔から前もってしるされている人々で、不敬虔な者であり、私たちの神の恵みを放縦に変えて、私たちの唯一の支配者であり主であるイエス・キリストを否定する人たちです。5 あなた方は、全ての事をすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたい事があるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたという事です。
6 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日の裁きの為に、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。7 また、ソドム、ゴモラおよび周囲の町々も彼らと同じように、好色にふけり、不自然な肉欲を追い求めたので、永遠の火の刑罰を受けて、みせしめにされています。8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体を汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。9 御使いの頭ミカエルは、モーセの身体について、悪魔と論じ、言い争った時、あえて相手を罵り、裁くような事はせず、「主があなたを戒めてくださるように。」と言いました。10 しかし、この人たちは、自分には理解もできない事を謗り、わきまえのない動物のように、本能によって知るような事がらの中で滅びるのです。11 忌まわしい事です。彼らは、カインの道を行き、利益の為にバラムの迷いに陥り、コラのように背いて滅びました。12 彼らは、あなた方の愛餐のしみです。恐れげもなくともに宴を張りますが、自分だけを養っている者であり、風に吹き飛ばされる、水のない雲、実を結ばない、枯れに枯れて、根こそぎにされた秋の木、13 自分の恥のあわをわき立たせる海の荒波、さまよう星です。まっ暗な闇が、彼らの為に永遠に用意されています。14 アダムから七代目のエノクも、彼らについて預言してこう言っています。「見よ。主は千万の聖徒を引き連れて来られる。15 全ての者に裁きを行ない、不敬虔な者たちの、神を恐れずに犯した行為の一切と、また神を恐れない罪人どもが主に言い逆らった無礼の一切とについて、彼らを罪に定めるためである。」16 彼らはぶつぶつ言う者、不平を鳴らす者で、自分の欲望のままに歩んでいます。その口は大きな事を言い、利益のためにへつらって人をほめるのです。17 愛する人々よ。私たちの主イエス・キリスト使徒たちが、前もって語った言葉を思い起こしてください。
18 彼らはあなた方にこう言いました。「終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。20 しかし、愛する人々よ。あなた方は、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、聖霊によって祈り、21 神の愛のうちに自分自身を保ち、永遠の命に至らせる、私たちの主イエス・キリストの哀れみを待ち望みなさい。22 疑いを抱く人々を哀れみ、23 火の中からつかみ出して救い、またある人々を、恐れを感じながら哀れみ、肉によって汚されたその下着さえも忌みきらいなさい。24 あなた方を、つまずかないように守る事ができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせる事のできる方に、25 即ち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

 この御言葉の言う通りに、ケネス・ヘーゲンは主イエス様の顕現に8回以上も出会い、主イエス様が直接預言者としての按手をして、油注ぎを行ったキリストご自身が直接立てられた神の器、神の権威があります。その事は私たちの翻訳した本である「私は幻を信じる」の中に明確に書かれています。
 神の油注がれた者に触れてはならないと旧約の御言葉にも書かれています。
モリエル・ミニストリーのジェフトゥール氏の批判は、霊的理解がされていないのではないでしょうか?
ユダ8 それなのに、この人たちもまた同じように、夢見る者であり、肉体
汚し、権威ある者を軽んじ、栄えある者をそしっています。
ユダ18 終わりの時には、自分の不敬虔な欲望のままにふるまう、あざける者どもが現われる。」19 この人たちは、御霊を持たず、分裂を起こし、生まれつきのままの人間です。
この御言葉の言う通りなのではないでしょうか?
 批判を肉の考えに従って信じて、神の油注がれた、主イエス様が顕現され、直接按手され任命された神の器を異端だと思い込んだのなら、理解してもいない事をそしっているのではないでしょうか?
 私は誰も裁きたくはなく、ただ私の信じている事はこうです。そしてモリエルのジェフトゥール氏のご意見とは異なる事を明確にしているだけです。
 そして私の理解するところを申し上げているだけなのです。
ヘーゲンの文の一部だけを切り取り、ヘーゲンがあたかもそれだけを言ったかの如くに歪曲し、異端として読者を誘導している事は、神の油注がれた器には神の権威があり、旧約のサウルが堕落しても神が一度油注がれた者には触れてはならないとの御言葉に反して、人々を異端に誘導してまでも、ののしると言う罪を犯しているのではないでしょうか?

 どんな信者もキリストの身体であり、その信者が間違えているのなら、それを正してあげるのがキリストの身体としての愛の行いであり、異端としてののしる行為は他人を陥れる行為に過ぎない。単なる肉の人の行為です。
ガラテ6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。
ガラテヤ6:1 兄弟たちよ。もしだれかがあやまちに陥ったなら、御霊の人であるあなた方は、柔和な心でその人を正してあげなさい。また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。
 モリエル・ミニストリーと、おもいっきり聖書の森大輔氏はブログに他人の批判、異端と罵りの言葉を掲載し、自分たちを罪に定めても、それに気づく事でさえない。霊的盲人になっているのですか?
 裁きは正しく、ヘーゲンの本を全文読んで、その前後も掲載して、そのどの文が聖書から逸脱しているのかを明確に提示しなければならないと思います。残念ながら、現在の批判はヘーゲンの文の事実と異なり、でっち上げて他人を批判していると言わざるを得ないのです。
 現在日本のマスコミが政治家とか、芸能人をその言葉の一部だけを切り取り、面白おかしくでっち上げ批判しているのと何ら変わらない、肉の考えと思います。

10.11.20日  主のしもべ faith_hoshino