私のブログ下記広告に張られた異端、新生命宣教会

      新生命宣教会、異端の信者を獲得法

☆この新生命宣教会の広告が私のブログの下記広告に貼り付けられました。これらの文のほとんどは真実でも、救い生まれ変りがイエスの水のバプテスマによる罪の許しと言う異端になっています。
つまりサタンは全聖書の真理をくまなく知り尽くしています。その上で、人を偽りに導こうとしています。このどこが異端なのかわからなければ、容易に異端に引き込まれてしまいます。全て新生命宣教会の文です。説明は星野によるものです。

(本文)彼らの言い分
<間違った教義>
現代のキリスト教には、聖書にない教えがあります。それは、死ぬまでに少しずつ聖化されて行き、死の時に完全にされるという漸進的聖化という教義です。
 
☆ 星野注:福音派の間違った教えではないかと思います? 私は各地の教会に行き、このような教えを聞き続けました。しかし、聖書は聖なる者とされたと言っているのです。
ヘブル10:10 この御心に従って、イエス・キリストの身体が、ただ一度だけ捧げられた事により、私たちは聖なるものとされているのです。
私は多くの牧師が御言葉の信仰に立たず、不信仰の感覚の偽りを言っていて間違えているものと思う。聖書が正しいと信じる。

(本文)
 人はイエスを信じると、だんだん変化していき、死ぬ時までに肉と霊が完全に聖化されるのだそうです。つまり、年を取れば取るほど、罪を犯さなくなっていくのだそうです。 クリスチャンとなって5年、10年と経つうちに徐々に罪を犯さなくなってきた、と実感している人がいるでしょうか。

☆ 星野注:私たちが信じてすぐに救われるのは「霊」だけであり、魂は知性の一新と信仰により魂の救いを得ると聖書は言っていて、霊の内におられる聖霊様による御霊による歩みへと変化して行く事が聖書の言う真理である。
ローマ12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か、即ち、何が良い事で、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心(正しくはカーディアは知性)の一新によって自分を変えなさい。
Ⅰペテロ1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

<本文>
 ほとんどの人が、子供の頃より今のほうがはるかに罪深いと感じているのではないでしょうか。人は年を取れば取るほど、頑固に、卑しくなっていくのです。姦淫の現場で女を捕らえたパリサイ人たちは、「罪のない者が最初に石を投げなさい。」と言われたとき、年長者から順番に去っていったとあります。年長者のほうが若者よりも、たくさんの罪が積もり積もっているからでしょう。 人が少しずつ聖化されるという教えを信じると、サタンの思うつぼです。この教えは、人を信仰ではなく律法の下に追いやります。
 クリスチャンは罪深い行い何てしないはずだと教えられれば、人はそうなろうと努力するでしょう。必死に、神の律法を守ろうとします。
 何よりも神を第一にしなければ。人に悪い感情を持ってはいけない。人の物をほしがってはいけない。異性に接するときには注意しないと。どんなに心を守ろうと努力しても、後から後から悪が芽生えてくるのがわかります。たとえ行動に出なかったとしても、心の中で罪を犯しているのです。
 頑張れる人は、教会以外でも自分をクリスチャンだと公言し、周りにも善い人だと認められることでしょう。しかし、律法の下にいる人は呪われるのです。これこそがサタンの目的なのだと理解しましょう。サタンは、人を地獄へ道連れにしようとしているのです。そのために、人を罪人にするのが仕事なのです。神様は、人間が罪深い弱い存在だということをよくご存知です。だから人は信じたその時に、一気に罪人から義人に変えられ、永遠に聖化されるのです。

☆星野注:全くサタン悪霊は福音派の欠陥を良くご存知で、お見事に聖化と言う、聖書から逸脱した教えの盲点を実に見事についています。
 人の霊は主イエス様を受け入れた瞬間に聖なる者、神の義とされます。
その事は聖書がヘブル10:10に聖なる者とされていると疑う余地がなく書かれています。Ⅱコリント5:21には神の義とされたと書かれています。
 私たちたは最初は律法による歩みをするかも知れません。しかし、律法は私たちの生まれつきの肉をただ汚れ、腐敗していると認識させるのみであり、それはキリストと共に死に、共に生きたものであり、私たちは新しい新創造である信仰による歩みへと聖霊様は導かれます。その新しさの中をただ信仰によって歩みなさいと教えています。これが霊的理解力の大きさであり、霊的理解力がない人たちには全く理解出来ません。
 頭と知性で自分自身の感覚と実感、実体験で、肉の考えでしか物事を考えない人たちには聖書の御言葉を今の現実であるとは信じる事が出来ません。
 私がヘーゲン異端と触れ回られて、最も残念な事はこの信仰についての教えを受けてもいない人たちがヘーゲンを全拒否するなら、もう永遠に信仰について学ぶ事が出来なくなると思われるからです。
 もし私たちが良い行いをしようと思うなら、この指摘された福音派と真理を知らないペンテコステ派の欠陥である律法による良い行いの歩みに陥り、実にお見事にサタン悪霊の偽りに騙されてしまうかも知れません。
 ですから私はローマ7章を何度何度も、公解して、書きました。パウロは明確に私の肉、生まれつきの中には善なるものが宿っていないと書いています。このモルモン教の指摘する、まさにその通りなので、私はさすがにサタンは聖書を良く知っていて、見事に信者をだまそうとしていると感心した。
 ここを付かれるとほとんど日本全国の信者は霊的理解がなく、全くその通りであり、この群れに救いがあるのかも知れないと騙されてはいけません。。
 私は肉においては全く良い行いなど出来る筈がありません。ローマ7章を私は全く全面的に信じています。しかし、私は本気でキリストと共に死に、キリストと共に死んだなら、キリストと共に生きる。つまりキリストの復活の命による歩みに入っている事をただ信仰により信じています。
 しかし、信仰による歩みが出来ない人たちは無理です。なぜなら、キリストと共に死ぬ事が条件ですから。死んでもいない人がキリストが生きられる事は出来ません。それは自分がまだ生き続けている状態で無理矢理、キリストの復活の命が生きる事は有り得ないからです。
 私はウォッチマン・ニー兄の「勝利の命」の真理を全員にお送りしました。
私の汚れ、腐敗を完全認識させられた人だけが死を信じる事が出来る人です。
私は姦淫であり金欲、名誉欲、物欲、食べ欲のみであり、全く善なるものがないとの認識、体験、経験、絶望、死を心から願う人だけが、キリストと共に死をただ信じる人です。キリストと共に死んだ人は共に生きるのです。
 ある神学校はこの正反対を追い求めています。御霊の賜物を追い求め、神の油注ぎを追い求め、天からの火を、火をと追い求め、奇跡としるしを追い求め、神学博士をお金だけで与える。このどこが聖書的なのか、全く非聖書的、反聖書的、反キリスト的そのものの神学校もあるのです。
 父なる神を真剣に追い求めるのでなく、父なる神の与える物を追い求めているようには聖書は全く書かれていません。つまり信仰とは聖書の御言葉に対する信仰を信仰と呼ぶのです。信仰から外れるなら、必ず行いの道に外れてしまいます。このモルモン教の文は実にキリスト教会の盲点を見事に付いています。騙されないようにしなければなりません。

(本文)
 そしてもう一つ、罪を犯したら神様に赦しを求めて祈らなければならないという教えがあります。良心の責めを感じたら、神様に謝って赦してもらわなければならないというのです。赦しの為に、謝るという行動が人間に求められているのですか? 謝れば、神は同情し、憐れんで下さって、罪を消してくださるのでしょうか? いいえ。罪から来る報酬は死です。(ローマ6章23節)罪は、イエスの贖いでしか消せません。
 それに、人の心には絶えず悪い考えが浮かんで来るというのに、今犯した罪を赦されればそれでよいのでしょうか。それでは人は、赦しを求め続けて終わりがありません。結局死ぬまで続くでしょう。それまでずっと、「赦してください」と言いながら生きていくのです。それでは人間の罪は解決しません。律法には、後に来る素晴らしいものの影はあっても、その実物はないのですから、律法は、年ごとに絶えずささげられる同じいけにえによって神に近づいて来る人々を、完全にする事ができないのです。
 もしそれが出来たのであったら、礼拝する人々は、一度きよめられた者として、もはや罪を意識しなかったはずであり、従って、捧げ物をする事は、やんだはずです。ところがかえって、これらの捧げ物によって、罪が年ごとに思い出されるのです。(ヘブル10章1-3節)
 いけにえは、日ごと、年ごとに捧げられました。いけにえをささげると、その日その日の罪が赦されました。毎日赦しを求めるのと、旧約のいけにえとは同じです。神は、日ごとの赦しは完全ではないとおっしゃっています。
 いつも赦しを求めて祈っていると、罪は消えますか?
一度きよめられた者として、もはや罪を意識せず、赦しを求める祈りはやみましたか? かえって、赦しを求める祈りによって、罪が日ごとに思い出されるのではありませんか? そして何度も罪を謝るのは気が引けるので、なるべく罪を犯さないように気をつけはしますが、それでも罪を犯してしまうので嫌になりませんか? 「私は、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらの事が赦されるところでは、罪の為の捧げ物はもはや無用です。(ヘブル10章17、18節)
 神様は、私たちに何度も謝るようにとはおっしゃいませんでした。神様は、御子を信じればそれでよいと言ってくださっています。御子を信じれば、一度で罪は消えます。イエスバプテスマを受けた時に、あなたの罪は、未来の罪までも全部取り除かれました。そしてイエスは十字架で、あなたの代わりに裁かれました。これを信じれば、あなたは一度で永遠に聖化されるのです。

☆ この文が聖書の正しい解釈でなく、異端であるのは、「イエスバプテスマを受けた時に、あなたの罪は、未来の罪までも全部取り除かれました。」
この十字架の贖いによらない、罪の許しを信じる事は聖書の教えでは在りません。聖書が教える福音とは十字架の死と血による聖めの福音であり、ヨハネの水のバブテスマとは、旧契約の民であるイスラエルの旧契約の中にある民が罪を認めて、告白して、水のバブテスマをヨハネから受けたものであり、主イエス様は良い行いとして受けたものであり、罪の許しの為などとは聖書は教えていません。
 これは永遠の命のかかった重要な問題です。永遠の命とはキリストを知る事です。キリストを知らない人だけが良い行いの道にはまり込むのです。
 これは基本の基本ですが、かなり高度の異端学です。ヘーゲンの異端もかなり高度な異端でしたが、これは誰もが引っかかるような異端です。
 今正確に御言葉を信じて、正しい御言葉信仰に立たなければ、このような惑わしの時代に行き抜く事が出来ません。あなたの教会の何人がこの異端を指摘できますか? もし正しく指摘できなければ、これからの患難期に救いを得続ける事はおそらく出来ないで、滅びる事でしょう。

☆この文は新生命宣教会の文ですが、あきらかに異端であり、検索してみるとモルモン教のようなものが出て来ます。警告として掲載しました。

10.11.30日 主のしもべ   faith_hoshino