ケネス・ヘーゲン兄が異端である理由     本質が間違っている!

     ケネス・ヘーゲンが異端である理由
 
 私は1984年からケネス・ヘーゲンの教えを学び続け、それが間違いを含むものだとは知らずに、日本全国に伝え続けて来ました。しかし、イギリスの神学校、教授のジェイコブ・ブラッシュが明確に指摘されている通りに、十字架の贖いが御言葉から逸脱し、繁栄の福音も、御言葉を越えていると思われます。又、海外の文としては、レッド・アース・ミニストリーにこの点について書かれた文が掲載されています。ほとんど大部分については非常に素晴らしく、それは正しいと思いますが、十字架の根幹を間違えては、異端と言われてもしかたがないと思います。
私はこの点について、悔い改め、ここに公表します。
信仰の言葉ミニストリー  星野明義 和子

1.ヘーゲン異端の指摘者
ジェイコブ・ブラッシュはアメリカでヒッピーから救われ、ペンテコステ派で育ち、多くの大学でヘブルを学び、イギリスの神学校のヘブルを教える教師です。彼は世界で、ディビッド・ウィルカーソンに次いで、ケネス・ヘーゲンを異端として退ける事を発言しています。
その根拠は十字架否定にあります。ケネス・ヘーゲンの十字架理解は霊において死んだと言う事によって、霊肉二元論、グノーシス的思考法になっています。霊が全て正しく、肉体は全て汚れたものであると言うのが、グノーシス、二元論の初期にあった異端で、それを繰り返しています。さらに繁栄の福音は聖書から逸脱してしまっています。それはアメリカの鉄工王、カーネギーが実践し、ナポレオン・ヒルがまとめ上げた、成功哲学、富の福音と同じようなものです。聖書が言う通り、ある人たちは幻を見た事に安住して、聖書の御言葉から離れてしまったと書かれている通り、ヘーゲンは御言葉から逸脱したものと私は思います。

2.ケネス・ヘーゲンの間違い指摘  ジェイコブ・ブラッシュの指摘 
①偽りの教えのヘーゲンの文とテープの現実
<信仰のことばの教え>
「信仰のことば運動」とは、ペンテコステ派を中心に、1980年頃にアメリカのケネス・ヘーゲン牧師が教え始めた運動の一つです。御言葉への信仰を強調するので、ワードフェイスと呼ばれ、信仰のことば運動とも呼ばれていました。この教えの一つには繁栄の福音と呼ばれているものもあり、裕福な生活が神の祝福であり、信仰により得られるとも教えられていました。さらに問題は主の十字架の贖いについて、「イエスは霊的に死んだ」と言う聖書から逸脱した教えがある事が問題です。
繁栄の福音を教えている教師たちがいます。ケネス・ヘーゲン、ケネス・コーポランド、フレッド・プライス、ベニーヒン、ジョイス・メイヤーなどです。これらの人たちは、イエスは十字架上でご自身の働きを完成されなかったと教えている事が問題です。「イエスはサタンの性質をご自身に受け、地獄に行き、そこで三日間苦しみを受けた。その後イエスは地獄で新しく生まれた。その後に悪魔を滅ぼし、御父の元に戻った」と教えるのです。
以下、彼らの教えたものを引用して、この証拠を挙げます。
以下、引用、モリエル・ミニストリーの指摘より。
<ケネス・へーゲン>
『霊的な死とは神から離される以上の事を意味する。また霊的な死はサタンの性質を持つ事をも意味する…イエスは死――霊的な死――を全ての人の為に味わわれた』 K. Hagin, The Name of Jesus, 1981) p.31.
『永遠の命を受ける事が、私たちの内に神の性質を受けるのと同じように、霊的な死とはサタンの性質を受ける事を意味する』
K. Hagin, Redeemed, Tulsa, OK, Faith Library, 1966, p.29 
(Redeemed贖いと言う本の中に書かれている)
『彼(イエス)は全ての人の為に霊的な死を味わわれた。そして彼の霊と内なる人は私の代わりに地獄に行かれた。分かるでしょうか。肉体的な死はあなたの罪を取り去りはしない事を!彼は死を全ての人の為に味わわれた。彼は霊的な死について語っておられた』
(How Jesus obtained his name tape # 44HO1 side 1)

②十字架の贖いの不確か、十字架否定  
『この御心に従って、イエス・キリストの身体が、ただ一度だけ捧げられた事により、私たちは聖なるものとされているのです。』(ヘブル 10 章 10 節)
偽りのキリスト教は何らかの形でイエスの十字架を否定します。ローマ・カトリックエホバの証人モルモン教コープランドとヘーゲン――彼らはイエスが霊的に死んで、サタンのような存在になったと教えていますが――これら全てのものは十字架を否定しています。
③二元論の異端
E・W・ケニオンやケネス・ヘーゲン、ケネス・コープランドなどは、クリスチャン・サイエンスから学んだ二元論を同じく教えています。
④繁栄の福音、成功哲学と同じように御言葉と異なる。
ここで思い出してほしいのがサンヘドリン、聖職者たちは堕落し――金儲けに走って行っていたという事です。それは現代ベニー・ヒンやコープランド、ヘーゲンの行っているようなものでした。このような状況はイエスさまが最初に到来した時と同じです。しかし聖職者たちの間で広まっていた腐敗や偽善にも関わらず、その中には個人的に正しい者たちがいました。
⑤十字架が中心ではない。ウォッチマン・ニー兄は十字架が中心
サタンは絶えず、クリスチャンに十字架の完全さを否定させようとします。
サタンに歪められたキリスト教の全てが何らかの形で十字架を否定しています。全ての欺きは信者であるあなたを十字架から離れさせるのです。全ての欺きは信者であるあなたを十字架から離れさせます
繁栄だけを約束する説教者たち(ヘーゲンやコープランドなど)は、イエスが地獄に下り、そこでサタンと同じ性質を持ち、地獄で生まれ変わったと教えています。そこでイエスが勝利を得たと言うのです。
彼らの考えは十字架が救いにおいての中心でない為に、十字架が信仰生活の中心でなくなっています。

3.なぜこれが偽りの教えなのでしょう? モリエル・ミニストリーの指摘
①聖書の御言葉から逸脱している
「イエスは霊的に死なれた」という教えは非聖書的である為に偽りのものです。以下に記された聖書箇所は全て、主イエス様の十字架の贖いは主イエス様の十字架の死と流された血である事を言っています。しかし、ヘーゲンは霊的死と言い、聖書とは異なる事を言っています。
この聖書の御言葉とヘーゲンの言う霊的死を比べてみれば、明らかに聖書とは異なる事が分かります。聖書は罪をどこで贖われたのかという質問を自分自身に問いかけてみて下さい。十字架上で血が流された時か、または悪魔によって地獄で苦しみを受けた時でしょうか?
ローマ5章9節『ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらの事です。』
エペソ1章7節『この方にあって私たちは、その血による贖い、罪の赦しを受けています。これは神の豊かな恵みによる事です。』
エペソ2章13節『しかし、以前は遠く離れていたあなた方も、今ではキリスト・イエスの中にある事により、キリストの血によって近い者とされたのです。』
コロサイ1章20節『その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、御子の為に和解させて下さったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させて下さったのです。』
ヘブル9章14節『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお捧げになったその血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする事でしょう。』
ヘブル9章22節『それで、律法によれば、全てのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎだす事がなければ、罪の赦しはないのです。』
ヘブル13章12節『ですから、イエスも、ご自分の血によって民を聖なるものとする為に、門の外で苦しみを受けられました。』
1ペテロ1章18節、19節『ご承知のように、あなた方が父祖伝来の空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、もな
黙示録1章5節後半汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』
イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、』
黙示録5章9節『彼らは、新しい歌を歌って言った。「あなたは、巻き物を受け取って、その封印を解くのに相応しい方です。あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、』
ピリピ2章8節『自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。』
『信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。ヘブル12章2節イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめ
 をものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。』
1ペテロ2章24節『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は、癒されたのです。』

明らかにイエスは私たちの罪の贖いを十字架上でなされ、地獄においてではありませんでした。息を引き取られる直前彼は「完了した」(ヨハネ19章30節)と叫ばれました。ギリシア語の意味するところは「負債が完全に支払われた」と言うものです。もし贖いがまだなされていなかったのなら、この箇所は意味を持たなくなります。
さらに、ヘーゲンは霊的死を言いますが、これらの御言葉は全て肉体の死であり、肉体の死でなければ、血を流す事が有り得ない、血を流す事がなければ、罪の許しは有り得ない(ヘブル9:22)。つまり異端なのです。星野
ケネス・コープランドはこれをアブラハムの契約の終焉だと主張しています。ケネス・コープランドアブラハムの契約が永遠に続く契約である事を分かっていなかったようです!それはキリストが十字架上で死なれた時に終わりはしませんでした。神のアブラハムの子孫への約束は、これまでそうであったように今日も真実なものです。キリストは十字架上でモーセの契約を果たしました。
何が終わったのかというと、神の怒りが私たちの代わりにキリストに降り注がれたからです。これと、主の日に最期の天使が怒りの鉢を地に投げ捨てている黙示録16章17節を比べてください。「完了した」その時、負債が“完全に支払われた”ので、キリストは『父よ。わが霊を御手にゆだねます』(ルカ23章46節)と祈る事ができたのです。

2.よみでイエスは何をしていたのでしょう? >
聖書のどこにも、イエスが私たちの罪を贖う為に地獄で苦しまれたという箇所はありません。
1ペテロ3章18節から19節ではこうあります。
『キリストも一度罪の為に死なれました。正しい方が悪い人々の身代わりとなったのです。それは、肉においては死に渡され、霊においては生かされて、私たちを神の御許に導く為でした。』
(注意してほしいのが、イエスは肉おいては死に渡されたが、霊においては生かされたとあり、苦しまれたのではありません)
『その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、御言葉を語られたのです。』
キリストはよみにいる者たちの為にそこへ下り、福音を宣べ伝えられました。そこで恐らく十字架の奥義を説明されたことでしょう。邪悪な者(ペテロはノアの日に罪を犯した天使たちが縛られていると語っています)と義なる者(イエスは捕われの者たちを引き連れました エペソ4章8節)に対してです。キリストはアブラハムと共に待っていた者たちを神の右の座に連れて行かれたのです。

3.サタンの性質?
信仰のことばを教える教師たちは、イエスが自分にサタンの性質を受けたと主張しますが、聖書は反対の事を教えています。
ヘブル9章14節『まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神にお捧げになったその血は、どんなにか私たちの良心を清めて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とする事でしょう。』
ここで捧げられたと書かれてあるのは、キリストの血であり、彼の霊が私たちの良心をきよめる(また罪を取り去る)のではありません。またイエスは傷のないご自身を捧げられました。聖書が「傷のない」と書いているのに、イエスがサタンの性質を受けたと教える事は何と冒とく的な事でしょう!
1ペテロ1章18節、19節『ご承知のように、あなた方が先祖から伝わった空しい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。』
私たちが贖いを受けたのはサタンの性質(サタンの霊)によるのではなく、「傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によった」のです。
「レット・アス・リーズンミニストリーズ」のマイク・オッペンハイマー(Mike Oppenheimer)は次のように書いています
『罪の為の捧げ物の動物は全てキリストの象徴です。レビ記4章3節は欠陥のない雄牛であり、レビ記4章23節は傷のない雄やぎ、4章32節は傷のない子羊でした。それらは傷や欠陥がないか念入りに調べられました。1コリント5章7節からイエスは過越の子羊だと分かります。贖罪のやぎになされた身代わりのいけにえの考えは、ささげる者がいけにえの動物の頭に手を置き、罪と罪過を象徴的に移すという事でした。(レビ記4章4節、24章33節)。そのいけにえは罪を覆うものとなり、神は罪ではなく、その流された血を見られたのです。
イザヤ53章6節では「…主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」とあります。キリストの上に手を置いたのは御父であり、私たちの代わりに彼が裁かれるためにそうなされたのです。そのいけにえの動物自体は罪になったのではなく、象徴的に罪を着せられたのであって、もしそれに傷があったり、罪に関わっていたりすると価値が無くなりました。』

<私(星野)の考えるところ>
 私は英文が全く分らず、ギリシャ語もヘブル語も良くわかりません。ですから、ヘブル語を使うユダヤ人であり、アメリカの多くの大学で専門的にヘブル語とヘブル学を学び、ヘブルの文化が分る、このイギリスの神学校教授ジェイコブ・ブラッシュの言う事が正しいとしか考えられません。
 ヘーゲンの間違いは、主イエス様が罪そのものになった、だから霊的に死んだと考えたのだと思います。しかし、多分、聖書と神の考えるところは主イエス様は罪そのものとはなっておらず、罪を背負われただけなのではないかと私は考えます。別の言い方をすれば、罪の様になられた。さらに言えば、霊は神のまま変わる事がなかった。しかし、魂と肉体において、私たちの罪を背負われた。その為に魂の叫びとして、「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになられたのですか」との言葉は魂のさけびなのではなかろうか?
その罪を背負われたから、肉体の死となった。聖書の御言葉は全て肉体の死と血を流したと書かれている。つまりヘーゲンはこの点において間違えてしまったのだと思います。
 私は人間的には実に愚かな者に過ぎず、良くは分かりませんが、ヘーゲンも人間であり、良く聖書を総合的に調べないで、閃いた事をそうだと思い込んでしまい、まんまとサタンの偽りの陰謀に引っかかってしまったものと私は考えます。
 もう一つの大きな問題を提示してこの異端の問題を終わりたいと思います。
私はケネス・ヘーゲンに学んだ宣教師から1984年にヘーゲンの教えた真理の数々を学びました。しかし、私がこの宣教師は確実に間違っている、これは偶像礼拝、星を拝む者であると思ったのは、ケネス・ヘーゲンを神のようにしている罪を見たからです。私は世界中には様々な神の器がいて、多くの真理を語られていると言ったら、この宣教師は、「いや、ケネス・ヘーゲンが一番である」と言った、この瞬間に偶像礼拝者であると私には見えました。
 日本全国に実に多くのこのような人たちがいるように思います。ヘーゲンの多くの教えは素晴らしくても、この贖いの根幹を間違えるのは、人々から異端と言われても、しかたがないものと私は思います。

☆最後に、私はケネス・ヘーゲンの異端の教えを含んだものを日本全国に伝えてしまった事を悔い改めます。この点については間違っている、異端である事をお詫びいたします。

11.1.22日
      信仰の言葉ミニストリー 星野明義 和子