信仰とは何か? ケネス・ヘーゲン著

第2課  信仰とは何か                     
 信仰について学ぶ場合、鍵となる聖書の言葉はみなさんよくご存知のヘブル人への手紙11:1です。「今、信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。」
※「今」はK.J訳にはNowとあるが、新改訳では抜けている。事柄を保証しはK.J訳Substance of thingsで事柄の実体であってとなっていて新改訳より原語に近いと思います。
 モファット訳聖書ではこうなっています。「今信仰とは私たちが望んでいる事柄に自信を持つ事であり、私たちの見ていない事を確信するという事です。」もう一つの訳ではこうです。「信仰は望んでいる事柄に実体を与える事です。」そしてまた、もう一つ他の訳を見てみると、こうあります。「信仰は、望んでいる事柄がついには私たちのものになるという事の根拠になる事実です。」ここで神は信仰とは何かという事を私たちに語っておられます。

 信仰にもいろいろな種類の信仰があります。救われている人も救われていない人も、全ての人は自然の人間的(肉的)な信仰というものは持っています。しかし、上の聖句では超自然の信仰について言っているのです。即ち、肉体的感覚が告げる事を信じる信仰でなくて、心(霊)で信じる信仰です。(※新改訳の心はギ語カーディアなので霊と訳すのが正しい。)信仰とは、他の言葉で言い換えてみれば、現実になっていない望みをつかんで、現実の領域に持っていく事です。そして、信仰は神の言葉によって生まれてくるのです。(第1課参照)
 聖書のこの箇所においては、信仰は「見えないものを確信させるもの(見えないものの証拠)」と表現されています。たとえば、あなたが支払わなければならない債務を負っていて、そのためのお金が必要であるとします。信仰はあなたの必要な時にお金を得る事ができるという保証となります。あなたがしなければならない仕事の為に肉体的な力(強さ)を望むとします。信仰はこう言います。「主は私の命のとりで(力)」(詩篇27:1)信仰はその事柄についていつでも神の言葉を言います。なぜなら神にある信仰は即ち神の言葉にある信仰だからです。

 何年も前、まだ苦しみの病床から起き上がったばかりの頃、私は信仰について重要な教訓を学びました。私は仕事をしなければなりませんでしたが、当時は不景気でしたので、仕事は容易に見つかりませんでした。私はやっと養木場で桃の木を引き抜くのを手伝う仕事を見つけました。もう一人の少年と木の両側に立って、その日の注文の本数だけ、植えてから2年たった桃の木を抜いていくのです。これは本当にきつい、大変な仕事でした。ことに私は16ヶ月も病床についていて起き上がってからまだ数ヶ月しかたっていませんでしたので、余計に大変でした。
 日ごとにそこで働く人たちは次々と辞めて行き、毎日誰かしらが私にこう言いました。「まああなたが今日まで続くとは思ってかなったねえ。知っているかい?きのうも二人か三人辞めていったよ。」私はこう答えて言ったものです。「だから分かるでしょう。神の力は私の力なのです。聖書は『主は私の命の力』と言っているんですよ。私の命は霊と肉とから成っています。そして主は私の命の力なのです。」もし私が自分の感覚に従っていたら(肉に従っていたら)、私はベッドから起きだす事ができなかったでしょう。私は神の言葉に基づいて行動しました。なぜなら私は信仰がどんなものであるかを知っていたからです。私はいつも仕事をやり出して初めて力を得ました。(仕事を始めるまでは力を受ける事がありませんでした。) 多くの人はまず受ける事を願い、そうしたらそれを得たことを信じようとします。しかし、そんなやり方では何も得られないのです。
あなたはまず始めに信じなければなりません。そうすれば受ける事ができるのです。このようにして私は毎朝、ベッドからはい上がって神の言葉に信頼してゆき、力を得たのです。私はそのグループの中で一番ひよわで、やせ細っていましたが、ただ一人、その仕事に最後まで残ったのです。
 私たちは、神の言葉は良いものだと言うかも知れません。しかし、私たちが実際にその言葉に基づいて行動し、結果を刈り取らなければその本当の意味は分からないです。私は働きに行きました。神の言葉に基づいて行動したのです。私はしなければならない仕事のために体力を望みました。そして神の言葉に基づいて行動すると信仰は私の望んだものに実体を与えてくれたのです。望みは「私はそれをいつか持つでしょう。」と言います。信仰は「私はそれを今持っている。」と言います。
☆希望は生まれつきの性質、肉的で、魂(精神)の働きですが、信仰は霊で信じる霊の働きです。

<頭の信念と心の信仰>
 ジョンウェスレーはかつてこう言いました。「悪魔は教会に信仰の替え玉を持ってきた。それは信仰によく似ていて、ほとんどの人たちはその違いが分からないのだ。」この替え玉を彼は「知性による賛同」と呼びました。多くの人々は神の言葉を読んでそれは本当だと思います。しかし、彼らは単に頭において賛成(賛同)しているだけなのです。それでは何も起こらないのです。神から何かを受けるには、心(霊)の信仰によらなければならないのです。
マルコ11:23 まことにあなた方に告げます。誰でも、この山に向かって『動いて海に入れ。』と言って、心の中で疑わず、ただ自分の言った通りになると信じるなら、その言った通りになります。24 だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。
 私たちが心で信じているのか、それともただ頭で賛成しているだけなのかという事を、どのようにしたら識別する事が出来るでしょうか。知性による賛同、すなわち頭だけで賛成している人はこう言います。「私は神の言葉が真理である事を知っています。神は癒しを約束されました。しかし、なぜだかよく分かりませんが、私はそれを受ける事ができないのです。」
 しかし、神の言葉に対する本当の信仰はこう言います。「もし神の言葉が、それはそうだと言うなら、それはそうです。それは私のものです。私は今、それを持っています。」信仰は「私は目に見えなくてもそれを持っています。」と言うのです。
 人々は、よくこう言います。「でも、私が祈ってきた事は全然かなえられていないのです。」もしあなたが既にその答えを得ているのならあなたはその事について信じる必要はないのです。なぜなら既に得ているのですから、あなたはそれを事実として確認すればよいのです。あなたは知るという段階に来るまでの前の段階で信じなければならないのです。あまりに多くの人たちはまず、それが実現したという立場に立って、その事実を確認してから初めて信じようとします。しかし、私たちは、神の言葉が、それは私たちのものであると言うがゆえにそう信じなければならないのです。そうして初めてそれが現実化してくるのです。
 上の聖句において受ける事は信じる事の後にきている事に注目して下さい。
K.J訳 何事でもあなた方が願い求めるなら、あなた方が祈る時にあなた方はそれを受けた事を信じなさい。そうすればあなた方はそれらのものを持つ事になります。 
 イエス様は単純明快にこのように言っておられます。「受ける前にあなたはそれを持っていると信じなければなりません。」
 私は体において病気の種々の兆候が、「お前は癒されていないぞ。」と叫んでいる時に信じたのでした。その時まず、私は癒されているんだと信じて初めて肉体の癒しを受ける事が出来たのです。私は癒されているのだと宣言し続けます。すると結果はその後にやってくるのです。しかし、もし私がじっとして、うめいたり、ため息をついたり、ぶつぶつと不平不満を並べたてて、癒されるのを待っていたとしたら、即ち、始めに信じようとせずに、全ての兆候が無くなって、感覚で癒されたと感じるようになってから信じようとしたならとても癒しを得る事は出来なかった筈です。なぜなら「信仰は…目に見えないものを確信させるものだからです。

アブラハムの信仰とトマスの信仰>                 
 多くのクリスチャンは「アブラハムの信仰」を持たなければならないところを「トマスの信仰」しか持っていないのです。トマスは言いました。「私は彼を見なければ信じない。」しかしアブラハムは「神の約束を疑うような事をせず信仰がますます強くなりました。
ヨハネ20:2412弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られた時に彼らと一緒にいなかった。25それで、他の弟子達が彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らは「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。26 8日後に、弟子達はまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなた方にあるように。」と言われた。27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、私の手を見なさい。手を伸ばして、私のわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」28 トマスは答えて、イエスに言った。「私の主。私の神。」29 イエスは彼に言われた。「あなたは私を見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。
トマスはなぜイエス様が生きておられると信じられなかったのでしょう?トマスはイエス様の手に釘が打ち込まれるのを見、わき腹をヤリで刺されるのを見ていたから。彼の肉体的感覚は、彼にイエス様は死んだと告げたのです。トマスは心の信仰ではなく、頭の知識を用いたのです。
 ではここでアブラハムの信仰と比較してみましょう。
ローマ4:17この事は、彼が信じた神、即ち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前でそうなのです。18 彼は望み得ない時に望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていた通りに、彼があらゆる国の人々の父となる為でした。19 アブラハムは、およそ100歳になって自分の体が死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることを認めても、その信仰は弱りませんでした。
☆K.J訳 彼は自分の体を気にとめなかった、サラの胎の死んでいる事をも気にとめなかった
 20 彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、21 神には約束された事を成就する力があることを堅く信じました。
 トマスの信仰とアブラハムの信仰の違いに注目して下さい。トマスは単に自然の人間的な信仰を持っていたに過ぎませんでした。それはこのように言うのでした。「私は自分がこの目で見てこの手で触れるまで信じない。」しかし、アブラハムは自分の体や自分の自然の感覚を考慮せずに、神の言葉を信じました。アブラハムが肉体的な知識や感覚に気をとめていなかったというのなら、彼は何に気をとめていたのでしょう。それは神のみ言葉です。
 何年も前のこと、心臓病の癒しを受けて、私は多くの人と同じように、この信仰の問題で闘っていました。心臓病の兆候はまたやってきました。どんなにひどい痛みに悩まされても、神の約束に立って祈っていると、主は自らの体に気をとめなかったアブラハムを思い起こさせて下さいました。神は自分の体に気をとめないで、神の言葉に気をとめるようにと示して下さいました。このようにして私は癒しに関する聖書の約束、例えば「彼が私たちの患いを身に引き受け、私たちの病を背負った。」(マタイ8:17)などを何度も何度も、全ての兆候が無くなるまで繰り返して言いました。(信仰の告白です) 多くの場合、私たちは間違ったことに目を留めてしまいます。即ち、神の言葉ではなく、肉体や兆候などを見てしまうのです。
 「ああ、神様はまだ私の祈りを聞いて下さらないのです。私はもう悪くなるばかりです。いっそのこと手術をしてしまおうと思っています。」ある兄弟がこんな風に言ったことがあります。彼がそういう不信仰な道を歩み続けるなら、そういう結果になるでしょう。また、ある教会を訪れた時、一人の婦人が証しの終わりにこう言いました。「私のためにお祈り下さい。私の病気はガンだと信じています。」もちろん彼女がそう信じつづけるなら、明らかにガンになってしまいます。イエス様はこう言われました。「あなた方の信仰の通りになれ。」ある人は祈りのリクエストを願ってこう言いました。「どうぞ、私のためにお祈り下さい。かぜをひいてしまったみたいです。(これならかぜをひいていると信じますとなっている)そのように信じているなら、私がいくら祈っても無駄です。なぜなら「あなた方の信仰の通りになれ。」とあるからです。(本人がかぜをひいてしまったと信じたら、その信仰の通りになってしまうので、他の人の祈りは無駄になってしまうのです) 私達は見る所によってではなく、信仰によって歩まなければなりません。
 ある人たちはこの種の教えを誤解してしまって、私が人々に全ての兆候を否定し、あたかもそれが全くなかったかのように振舞うように言っていると思い込んでしまいます。彼らは私がクリスチャン・サイエンスを教えているのだと思っているのです。しかし、これはクリスチャン・サイエンスではなくて、クリスチャン・センスです。私たちは、痛みやその他の兆候を否定してしまうことはしません。なぜならそれは大変現実的に存在するからです。しかし、それらの兆候に目を留めてしまうのではなく、それらのものを超えて、神の約束に目を留めるのです。
 神の言葉に対する真の信仰はこう言います。「神がそれはそうだと言うなら、それはそうです。神が『キリストの打ち傷のゆえに、あなた方は癒されたのです。』と言うなら私は癒されました。『神はあな方の必要の全てを満たして下さいます。』と神が言うなら、神はそうして下さいます。」言い換えると、真の信仰は単純にその事を神のみ言葉で言っている事に当てはめて言うのです。
 真の信仰はみ言葉に立脚しています。私たちはみ言葉を黙想するべきです。すなわち、み言葉を深く掘り下げ、それを食べる物が私たちを形作るようになるのです。私たちの肉体の人と食物との関係は、丁度、私たちの霊の人とみ言葉との関係に相当します。み言葉は、私たちの内に、自信と確信を築き上げるのです。

暗唱聖句  今、信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。 (ヘブル11:1)
中心真理  信仰とは現実となっていない望みをつかんで、現実の領域に持っていく事である。