kito_yurianusuさん今日は! 良く分かりませんが、私なりにお答えします。

kito_yurianusu 2010/08/07 07:06
はじめまして。おとなり日記で飛んできました。
キリスト教で一番疑問なのは、神(イエス)が全てを背負うことが本当に尊いことなのか? それを愛と呼べるのか?ということです。極端な話、良いことも悪いことも、神様のおかげであり責任であり神様次第と思うということは、本当に解放なのでしょうか。言い換えるなら、罪や責任をすべて自分以外の誰かに求めて安心することが本当に”愛”なのでしょうか。信仰した結果、運命論者となり、主体性が減り、無気力になり・・・という姿を想像してしまいます。


1.イエスが全ての罪を背負うから私たちの責任がなくなるとか、私たちは何もしなくても無罪放免になると言うのなら、それは神の過保護であり、人は主体性のない、過保護の下で育った人となり、平気で悪をしてはイエスの十字架の死に委ねてしまう人になる、つまり人をさらに堕落させてしまうかも知れませんね。そのように考えるクリスチャンも多くいるのかも知れませんね。
 まず創世記において、父なる神は人を創造して、このように仰せられました。
創世記1:26神は我々に似るように、我々の形に人を造ろう。そして、彼らに海の魚、空の鳥、家畜、地の全てのもの、地を這うものを支配させようと仰せられた。
 つまり神が人を創造した目的の一つは地上の支配者として、全ての生命を助ける事、支配する事を人間に委ねられました。
 ただし、人が神と分離し、独立して、これを聖書では死と呼んでいる、つまり死の行いによって勝手気ままに支配する事を言っているのではありません。
 神と繋がりつつ、この事を聖書では生きると言っています。また、神は霊であり、人には感じられませんから、聖書の御言葉だけを頼りにして信じて、この御言葉を信じる事が信仰と呼んでいます。
 つまり神と人との関係は相互依存の関係であると言えるでしょうか? 

2.イエスが人の罪を背負った事が愛と言えるか?
 それは愛にも過保護にもなり得るかもしれません?
人が自分自身の責任において生きて、それでも良い事よりも悪い事を行ってしまった。そして日本全国の宗教は、自分を変えなさい、良い行いをしなさいと教えます。
 聖書だけが、創造主の神が人の行った悪の責任を取られ、御子イエスに全て背負わせ、宇宙の大法廷において、罪の刑罰の死刑を執り行われました。
 これを愛として取るかどうかは、その人の信仰によるのではないでしょうか?
世界には65億の人が住み、その中の20億人が、それを愛と取り、キリスト教徒と呼ばれています。しかし、カソリックプロテスタントがあり、その中にもそれぞれの取り方が異なっています。私はワードフェイス、御言葉の信仰と言う群れにいます。

3.人の中の考えが現われて来るのかもしれません。
 人は何かの教えを聞き、その反応をします。それは聖書の教えを聞いても、実は、その人の中に根づいている考えが啓発されて出て来たとも言えるのものかも知れません。
 心が、卑怯であり、逃げる事だけを考える人にとっては、イエスが自分の罪を背負ったと聞く事により、それはしめた、その中に逃げ込めば良いと考えるかも知れません。
 しかし、ある人は心から人々を助け、自分の為よりも人々の益を考えて生きているにも関わらず、人の弱さは心とは逆に悪を行ってしまう事もあります。
 このような人にはイエスの罪を背負った事はもしかしたら、益になるのかも知れません。


4.ただ言える事は私の創造者がおられるのなら、その創造の目的の通りに歩みたい。
 私は人が何の為に生きるのか、何の為に勉強するのか、何の為に働くのかと考えました。
 しかし、どのように見ても、人はただ自分自身の為、自分の事私か考えないで、生きるとしか考えられませんでした。
 そこに聖書を読み続け、神が人を創造し、神と人が交わりながら生きる道が書かれていました。これは私にとっては素晴らしい道なのではないかと思いました。
 それが19才の時で、それからもう43年になります。
 長い間、製造業で電子の製品を製造し続けて来ました。工場封鎖されて、無職になり、何の為の人生だったのかと考えた時、聖書の神を信じて、神と共に歩んで来た事が良かったと思いました。私の一人よがりかもしれませんね。それでも私は聖書の神と共に生きて生きたいです。

    信仰の言葉ミニストリーズ  faith_hoshino