世界的預言者、ケネス・ヘーゲンが落ちかかった地獄の体験    

    世界的預言者、ケネス・ヘーゲンが落ちかかった地獄の体験  私は幻を信じるより

<死んだ時>
 私は寝たきりになったちょうど始めの夜に心を主に明渡して新生しました。それは1933年4月22日土曜日の午後7時40分に、テキサス州マッキーニーのノースカレッジ通り405の南のベッドルームでのことです。(※訳者注16才の時)
その晩の少し前の時間に私の心臓は鼓動が止まって私の体に住んでいた霊の人は体を離れました。死が私の体を襲った時、私の祖母と一番下の弟と母が部屋に座っていました。
私はただ「さようなら」と言うしかひまがなく、私の内なる人はすぐに体から抜け出て、目がすわって冷たくなって横たわっている体を離れました。
 私は下へ下へ下へと落ちて行き、地球の光は消えさりました。私は気を失ったと言っているのではありません。私が意識を失ったというのではないのです。私が実際に死んだという証拠があります。目はすわって心臓は鼓動をやめ、脈は止まってしまいました。
聖書は失われた者達は外の暗闇に追い出されて、そこで泣いたり嘆き叫んだり歯ぎしりしたりすると言っています。(マタイ25:30)
私がどんどん下へ降りて行けば行くほど回りは真っ暗になっていき、とうとう全くの暗闇になりました。私の手を私の目から1インチのところまでもってきても私には手が見えなかったでしょう。私がどんどん落ちて行けば行くほど熱くなってきて、息苦しくなってきました。
 ついに、私のはるか下の方で罪に定められた者たちの洞窟の壁に明かりがちらちらしているのが見えてきました。それは地獄の火によるのでした。巨大な白く泡立った炎の球体が、磁石が金属を吸い付けるように私を引っ張りました。私は行きたくありませんでした。私は歩きませんでしたが、金属が磁石に飛びつくように私の霊はその場所に引っ張られて行きました。
私はそれから目をそらすことができませんでした。熱が私の顔に飛びかかりました。もうその時から何年もたっていますが、私はその時見た光景を今だにはっきりと思い浮かべることができます。それはあたかも昨夜起こったかのように私の記憶に生々しく残っているのです。
 私は地獄の入口までやってきました。ある人はこう尋ねることでしょう。「地獄の入口はどんなふうでしたか」私にはそれを説明することができません。なぜなら、私がそれを説明しようとするなら何かにたとえるものが必要だからです。誰か生まれてからずっと木を見た事がない人がいたとしたら、木と比較して、こういうものだとたとえるものが何もないので木がどんなものかを彼に教えるのは不可能でしょう。
 私は入口まで来て止まりました。私は完全に停止したというわけではありませんが、行きたくなかったのでほんの一瞬ためらったのです。私はあと一歩で、あと一歩で、あと1ヤード(約0.9m)で永遠に行ってしまい、2度とあの恐ろしい所から戻ることができないことを感知したのです。
 私は穴の底につくと、何か霊的な生き物が私のわきにいるのに気づきました。私は地獄の火から視線を離すことができませんでしたから、その生き物を見ませんでしたが、私がためらった時、その生き物は私の腕をとって中に入れようとしたのです。
 
その瞬間、暗闇のはるか上の方から、地の上、諸々の天の上から一つの声がしました。それは神様の声でした。私は彼を見ませんでした。又、彼が何を言ったのかわかりません。なぜなら、彼らは英語で話さなかったからです。彼は何か他の言葉で話しました。彼が話すとその声は落とされた者たちの領域中に響き渡り、木の葉が風にゆれるようにその場がゆれて、私の腕をつかんでいたものはその手を離しました。私は振り向きませんでしたが、目に見えない何かの力が私を引っ張り、私は火から遠ざかって行き、熱から遠ざかり、さっきの吸い込まれるような暗闇の陰にもどりました。
 私はどんどん上へと昇り始めとうとう穴の一番上まで来ると地球の光が見えました。私はいつもドアを通って入っていたのと同じように現実にあの部屋に入りました。ただ違うことといったら霊にはドアなど必要ないということだけでした。私は人が朝になってズボンをはくように自分の体の中に入りこみました。出て行った時と同じように口を通してです。
 私は祖母に話し始めました。彼女は言いました。「おまえ、私はもうおまえが死んでしまったのだと思ったよ。」私の祖父は医者で、彼女は祖父と一緒に働いていました。彼女は後になって私に言いました。「私はかつて埋葬するために多くの人たちに着物を着せて入棺の準備をしたものだ。私は死に関して多くの経験をもっていたけれど、それまで私が知っていたことより多くのことをおまえと、おまえの体験から学んだね。おまえは死んでいたんだよ。おまえはもう脈もなくなり心臓の鼓動も止まっていたし、目はすわっていたよ。
「おばあさん」私は言いました。「さっきはまだ行かなかったんだ。でも僕はもう行くところだよ。死んでしまうとこなんだ!お母さんはどこ?」
 「お母さんは外のポーチのところにいるよ。」彼女は言いました。その時私は母がポーチのところを行ったり来たりしながら祈っているのが聞こえました。「弟はどこ?」私は尋ねました。
 「あの子はお医者さんを呼びに近所へ走って行ったよ。」彼女は答えました。「おばあちゃん。僕はお母さんにさよならを言いたいけど、おばあちゃん僕のところから離れないでね。お母さんにさよならって言ってね。」私はこう言って、祖母に母へのメッセージを残しました。そして私は言いました「おばあちゃん、ありがとう。お母さんが体の具合を悪くして、僕のめんどうを見れなくなって、おばあちゃんは僕の第二のお母さんだったね。今もう僕は行ってしまうんだ。そして今度は戻って来ないんだ。」私は自分が死んで行くのを知っていました。神様に会う備えをせずに……

 私の心臓は胸で再び鼓動をやめました。二度目に私の霊は体を離れました。私は再び暗闇に落ちて行き、地球の光が消え去りました。下の方で、同じことが又起こりました。神様が天から話されると私の霊はその場から抜け出て、自分の部屋に戻り、自分の体に戻りました。私は再び祖母に話し始め、言いました「今度はもう戻ってこないよ、おばあさん」私は彼女にもう少し家族の者たちに伝えてほしいことを言いました。

そして三度目に私は体から抜け出して下へ降り始めました。
 私は地獄の恐怖をうまく描写する言葉があればと思います。人々はあたかも自分が地獄に行く必要などないといわんばかりに、あまりにも自己満足的なのん気な生活を送っています。しかし、神の御言葉と、私自身の体験はそうでないと言うのです。私は気を失うというのがどういうことか知っています。そして気を失っている時には真っ暗になっています。しかし、外の暗闇のあの暗さには較べるものがないのです。
私が三度目におりて行った時、私の霊は文字どおり、金切り声を上げました。「神様、僕は教会に所属しています。僕は水のバプテスマを受けています」私は神様の答えを聞こうとしましたが、答えはありませんでした。ただ私の自分の声がばかにするようにはね返ってくるだけでした。教会に所属しているだけではだめなのです。地獄をまぬがれて、天国に行くには水のバプテスマを受けているだけではだめなのです。
エス様は言われました。「…あなたは新しく生まれなければなりません」(ヨハネ3:7)
もちろん、私は水のバプテスマを信じていますが、それは人が新生した後に限ります。もちろん私は教会に加わり神のために働くのにクリスチャンとして団結することを信じています。しかし、人がただ水のバプテスマを受けただけで実際に新生していないで教会に加わっているならその人は地獄に行くのです。
<新生の時>
私が三度目に穴から抜け出た時、私の霊は祈り始めました。私の肉体の声は私の霊の祈りをとって霊が祈ったまさにそのことを祈りました。私はあまりにも大きな声で祈って、近所の人たちに聞こえたほどでした。人々は何事が起きたのかと、私の家まで見に来ました。というのは彼らは私の祈っているのを聞き、私の母がポーチのところを歩きながら大声で祈っているのを聞いたからです。私が時計を見ると8時20分前でした。まさにその時間に、私は神の憐れみによって、母の受け入れられた祈りを通して新しく生まれたのです。
私のその祈りは教会の会員であるという事や、水のバプテスマを頼みとしたのではありませんでした。ただ私は神様を呼び求め、罪人の自分を憐れんで下さい、私の罪を赦し、私を全ての不義から聖めて下さいと祈ったのでした。私はイエス・キリストを受け入れました。彼を告白し、私の救い主として受け入れました。私は重荷が胸から落ちたような素晴らしい感じを味わいました。
私は霊においては喜びがあり、幸せでした。私は霊的には素晴らしい感じでした。しかしながら肉体的には全然よくなった感じはありませんでした。医者が呼ばれて来ると、彼は家族の者たちに私は死ぬだろうと言いました。私はその晩に死ぬかと思いました。しかし、そういう思いがあっても、私は平気でした。その時にはもう行く準備ができていることを私は知っていたからです。

私が体験した、死からの甦りというのは新しいことではありません。イエス様はラザロを死から甦らせ、同じようにヤイロの娘や、やもめの息子をも生き返らせました。使徒ペテロはドルカスを死から甦らせました。使徒パウロは若い男を死から甦らせました。教会の歴史の中で他の人々もこれと同じような経験をしました。私の体験の中では、神様が私に救いの知識を与えて下さいました。
そしてこれは世界中で知ることのできる事柄のうち最も素晴らしいことです。私は自分の心が神様と正しい関係になり、もし朝になる前に死んだなら主とともにいるようになることを知って大いに感謝しました毎晩あかりが消え、家族の者たちが床につくと、私は一人残されて思い巡らしていました。そして私は多く考え、多く祈りました。
私は自分が救われ神の子とされたことを神様に感謝したことを覚えています。私はほほえみをうかべて、主を賛美しながら眠りますから、夜の間に死んだとしても次の朝彼らは私がほほえんでいるのを見るでしょうと主に告げました。もし私がこの命を去ったなら、心に賛美をもって行ったでしょう。私は主を賛美しながら眠りにおちて行きました。私は眠るために全然何も飲んだりする必要はありませんでした。そして今でもそうです。聖書は私たちにこのように言っています。「主は愛する者に眠りを与えられる」(詩篇127:2)一人一人のクリスチャンがそうであるように、私は主に愛されている者です。ですから私たちは単純にその節をとって主にそれを感謝し、安らかな眠りにつくことができます。私たちは精神安定剤など必要ないのです。

 次の朝、太陽の光がベッドのところへ差し込んで、私が目をさますと、まず最初に私のしたことは神様を賛美することでした。私は新しい陽の光を神様に感謝しました。私は太陽を、木や花を草や葉を神様に感謝しました。私は小鳥たちの歌う歌を神様に感謝しました。私はこれらすべての素晴らしく、驚くべき美しい小さな者たちのゆえに神様を賛美しました。私はそれまで誰かが神様を賛美するのを全く聞いたことがありませんでした。しかし人の心が神様とうまくいっており、天国への行く準備ができていることを知っているなら、その人は魂には自然と賛美が湧き上がるものです。
私は神癒については全く何も知りませんでした。私は神様がそのような祈りに答えてくれるなどという事を知りませんでした。でも私は死んで地獄に行かなかった事を神様に感謝しました。
 お昼になって祖母が昼食をお盆にのせて持ってきてくれました。私は祈り、食べ物を主に感謝してこう言いました。「主よ、夕暮れの陽の落ちるころには僕はここにはもういないでしょう。僕は多分このこの昼間のうちに行ってしまうでしょう。でも僕は救われてとても嬉しく思います。あなたが僕を地獄にやらなかったことをとっても嬉しく思います。あの下の方にとどまっていなくてすんでとっても嬉しく思います」
 しばらくして、夜になると、私はまたすぐに暗闇の中に一人とり残されました。私は再び救いのゆえに主を賛美し、私は多分、夜のうちに死んでしまうでしょうけれど、救われていて、主にお会いする準備ができていて感謝でいっぱいですと主に告げました。そして私はほほえみながら主を褒めたたえながら眠りにつきました。来る日も来る日も何週間もの間、そして何ヶ月もの間私はこうしました。
 その年の秋、気候がだんだん涼しくなってきた頃に、私は幾分気分がよくなってきました。祖母は私を支えてベッドの上に起こしてくれました。そして彼女は聖書をもってきて、私の前に置いてくれました。私は時々、私がバプテストの少年で、祖母のメソジスト聖書を読んでいたと人々に言います。

 私が始めに聖書を読み出した時には、一度にたったの10分くらいしか読めませんでした。それ以上たつと、見えなくなってしまうのでした。ですから、その日はそれだけで終わりです。次の日には又10分か15分くらい読みました。そのようにして数週間読んでいくと、私は一度に1時間読めるようになりました。そしてついには、いくらでも私が読みたいだけ長い時間読むことができるようになりました。
 私は日曜学校で育ちました。私は最初に教会に行った時のことを思い出すことができません。私は人生においてずっと祈ってきたようでした。そして又、初めて聖書を読んだ時のことも思い出すことができません。しかしあの4月22日の土曜日の夜、神様が私に一瞬の間、地獄をのぞかせて下さった時まで私は真に生まれ変わってはいませんでした。人は宗教的でありながらも、真の生まれ変わった神の子ではないということもあり得るのです。
しかしながら人が生まれ変わるなら、その人がこれまでの人生においてずっと読んできた聖書も、突如として違ったものに見えてくるのです。私が祖母の聖書を読むと、イエス・キリストはきのうも今日もいつまでも同じだということがわかりました。
 医者たちは私が死んでもおかしくないと言っていましたので、私は聖書を読み始めるにあたって新約からから始めました。私はこんなふうに理論づけて言いました。「僕は今からあと10分も生きないかも知れない。それなら、この10分を又何分であっても活用することにして、新約から始めよう。」私はマタイの福音書を読み終え、マルコの福音書を読み始めました。私は私の人生を変革した聖句を読みました。

「だからあなた方に言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)
 
勿論、救いは人に起こりうることの一番重要なことです。しかし、人が普通の子供時代を全く持たずに、ずっと病気で何ヶ月も何ヶ月も病床で寝たきりの生活をし、もうあと長くはない死の床についていることを知ったなら、彼がどんなにか言い尽くせないほどの健康と癒しと命に対する欲求を持つかあなたには全く理解できないでしょう。
 私の心の中にあった最も大きな願いは、健康になり、強くなることでした。そしてこの聖句でイエス様はこう言っておられます。
「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」誰かが真っ暗な部屋に明かりをつけたような感じでした。そして、昼間までも四方を壁で閉じ込められていていつも全くの絶望を感じながら天井を見つめているその暗さと言ったら、どんなであるか誰にも想像がつかないでしょう。
 私は詩篇の記者がこう言ったのを知りませんでした。
「あなたの御言葉は、私の足のともし火、私の道の光です」(詩篇119:105)
しかし、その御言葉を知らずに、私はその経験をしました。突如として、部屋中が光にのみ込まれたように見え、私の内側に明かりがともったように思えました。私はその経験とその聖句を決して忘れることができません。その時以来私の心に焼きつけられているかのようです。