救いとは何?

聖書のローマ人への手紙には次のように書かれています。
ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。
 
 この救いと言う言葉のギリシャ語の意味は、解放、安全、保護、癒しなどです。ですから、聖書の言う救いとはこのようなものからの救いについて言っています。
 神は人を創世記において創造しました。しかし、人類最初の人アダムは神が食べてはいけないと言った、善悪の知識の実から取って食べました。
 その事により、人は霊、魂、身体の三部分に構成されていましたが、その霊が死んでしまい、神は霊であるので、神を認識する事が出来なくなってしまいました。その反面、人は肉体の欲望によって獣のように生きるようになり、魂を異常に肥大化し、何でも人間の知恵と知識によって行い、地球全体を悪化してしまいました。お金を愛し、地位、名誉を求めるようになってしまいました。
 しかし、神は愛であると同時に義でもあります。神は人の罪の刑罰として死刑を定められました。
しかし、反面神は愛です。人が悪いからと言う理由によって全員死刑にしてしまうなら、神は愛に反する事となってしまいます。
 そこで人の創造主を代表して、キリストが人の罪を背負って、人の罪の死刑の刑罰を受ける事を申し出ました。そして、2千年前に神は宇宙大法廷において、人類の罪の刑罰の死刑をしっこうされました。それでイエス・キリストが十字架の死刑の刑罰を受けたのです。
 これが神の義の要求を満たし、かつ神の愛の要求を満たす為でした。
 しかし、この罪が許されたから、これからは善を行えとは無理難題を押し付ける事です。この罪の許しだけでは福音とはなりません。人の古いものも死刑にする事と新しく新創造する事によって、人は始めて救われる事になります。
 その方法は、人がキリストと繋がるなら、キリストのものと繋がります。キリストの十字架の死刑とも繋がり、復活とも繋がります。
 この繋がる事を信仰と言います。私はキリストを信じます。キリストと共に十字架で古い人が死につけられた事を信じます。と信仰を持つなら、キリストの達成した事が私たちのものと神によって見なされます。ここに救いがあります。
 私は怒りがあり、妬みがあり、憎しみ、などの汚れた性質をアダムから受け継いで生まれてきました。ですから、私の父はサタンのようなものです。悪ならいくらでも考えられます。しかし、いざ善を行おうとしたら、出来ません。パウロがローマ書7章に書いている通りです。
 しかし、私が信仰によってキリストと繋がるのなら、キリストの死は私のものとなり、復活も私のものとなり、私は新しく造られたものとなります。
 キリストはこのように言われました。
 人は新しく生まれなければ、神の国に入る事は出来ない。
この世の人間のままなら、天国は地獄の人々で満ち溢れるようになります。
 人はアダムの子孫として罪と汚れに十字架で死に、復活において、新しく生まれる事が出来ます。ただし、それは信仰の中においてです。
 ここに信仰による救いの福音があります。 
 それが次の御言葉の言う意味です。
ローマ1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる。」と書いてあるとおりです。

 本日は信仰による救いについて一言書きました。ではまだね。