聖書の中心的事は命の交換である

 キリスト教と言う宗教を行っている人たちは沢山います。しかし、私はキリスト教を宗教と考えた事はありません。聖書の全巻から見るに、神のなさりたい事は人の命を交換する事であったと思います。 まず聖書の最も最初の創世記において、人には食べる可能性としての命の木と善悪の知識の木があり、悪魔の誘惑により、人の祖先であるアダムは善悪の知識の木から取って食べました。
 そこから全人類に神から分離して、勝手きままに人の善悪による判断によって生きる事、それが善悪の知識の命の木の実として、全人類に現れています。
 この木の実の一つが善行を行え、それによって救われると語り続ける全ての宗教があると思います。しかし、神が本来与えたがったものとは、神の命、神の能力と実力を持ち、愛の命である命の木から取って食べる事でした。 その真の命とは主イエス様でした。 
ヨハネ14:5イエスは彼らに言われた。「私は道であり、真理であり、命なのです。
 ここに主イエス様は命であると言われ、主イエス様が私の罪を背負って十字架で死刑の刑罰を受けられ、復活した事を信じるのなら人は新しく生まれ変わりする事が出来ます。
 どのように生まれ変りするのかと言えば、生まれつきの悪しか考えない汚れた命とは別にキリストの命が新しく与えられるのです。
 但し、この永遠の命、神の命は、神が霊であるので、霊の命として与えられます。しかし、生まれ変りをした人たちは確かに、この命の要求があり、多くの人たちは酒を飲んでいた人が酒が欲しくなくなったりします。自分の事ばかり考えていた人が他人の益の事を考えたりするように、確かに神の命が与えられた現われがあるようになります。それが次の御言葉です。
ローマ5:10もし敵であった私たちが、御子の死によって、神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼の命によって救いに預かるのはなおさらの事です。
 キリストによる救いとは、罪の許しだけではなく、今生きる事にも救いが在り続けます。それは何によって行われるのかと言えば、キリストの命によって生きる事によって、私たちの生まれつきの命により、苦しみ、もがきながら生きる事から救われます。
 人間の根本的問題は生まれつきの人間の命が獣と同じく、獣のようにしか生きる事が出来ない事にあります。誰でも愛があり、善を行おうとする気持ちはあっても、それを行うよりも、なぜだか悪を行ってしまう。それで反省し、良心による罪の咎めをかんじながらいき続ける者が生まれつきの人間の自然な状態なのです。 
 しかし、神はこのような状態に人間を創造しようとお考えになったのではなく、罪を許し、神の義として、義と認められ、義人に神の命と神の霊を与えようとご計画されたのです。
 これは命の交換のもんだいであり、これが聖書を真剣に読むのなら、神のご計画としてか賭けている事なのです。
 さらに深く書いているのが使徒であるパウロでした。次の御言葉です。
ローマ8:2なぜなら、キリスト・イエスに在る、命の御霊の法則が罪と死の法則から、あなたを解放したからです。
 人には罪を考え、罪を犯す法則があります。それはアダムが悪魔に従った結果です。しかし、救い主キリストを信じる者には神の命が与えられ、この命に従って生きるのなら、自由に生きる事が出来る。これがキリスト教と言う宗教を行っている人とは別に聖書本来のおしえなのです。
 もう一度聖書の言っている事を改めて考え直す事が必要かもしれません。
 今日は、命の交換について書きました。このようにも聖書は書かれています。