救いはただ信仰による

      救いはただ信仰による     しかし、信仰以外がほとんど

 救われる為にはただ信仰だけです。しかし、人は肉(生まれつき)の多くのものを付け加えています。それらを一つ一つ取り除いて本物の救いの信仰を明確化します。ウォッチマン・ニー全集を参考にしましたが彼らとは関係はありません。

1. 信仰にはその後の希望は必要ない
 救われる為に、信仰を持ち、その後教会に通い、神に熱心に祈り、神の哀れみを求め続け、天国に入れてくれる事を待ち望む事が必要だと考える人たちがいます。何を考えているのでしょうか??? 救いの条件ではありません。
ローマ3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によって証しされて、神の義が示されました。22 即ち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それは全ての信じる人に与えられ、何の差別もありません。
 聖書は信仰によって救われ、さらに神に希望を持ち続ける事が救いに必要だとは言っていません。神は既に哀れみを現され、救いを成就されました。ですから、信仰を持っている人がなおも希望を持つなら、そのような人の信仰は当てになりません。その信仰は本物ではありません。サタンに騙されているのかも知れません。
 なぜなら、信仰とは既に成就された事実を信じる事だからです。ですから信仰を持ち、さらに望んでいる人の信仰は真の信仰ではありません。
 希望を持つ人の心は今実現していない事を信じています。 今信仰が無いので、神に期待したり、嘆願したり、神の哀れみに期待しようとするのです。つまり救いの信仰が本物でなかったのです。偽りだったのです。
つまり、日本中に見られる、神に期待して、希望を持つ事は、救いの信仰が真の信仰ではない事を証明しているので、危険です。そのような人は信仰が何かを知りませんし、神の心も知りません。
 神はしぶしぶ赦すお方であり、哀れみを求めて嘆願しなければならないと思っています。そのような人は、神が既にあなたを赦された事をご存知でしょうか? 主イエス様は十字架において血を流され、あなたの全ての罪を既に赦しておられる事をご存知でしょうか? 神は既に憐れみを現された事をご存知でしょうか? 
私たちにとって、嘆願する必要もなく、望む必要も全くありません。私達に必要な事はただ信じる事だけなのです。
 もし信じるなら罪は赦されます。もし信じるなら、主が赦された赦しはあなたのものです。イエス・キリストがあなたの為に死なれた事を信じるなら、神の恵みの全てはあなたの身に現されます。もう希望を持つ必要はないのです。
 多くの人たちが言います。「必ずなると信じる」これは希望に過ぎません。なると信じなくても、主イエス様は既に、罪を赦されました。神の義とされました。聖なる者とされました。新しく創造されました。希望を持つなら何一つ実現する事は有り得ません。もし信じるなら今すぐに実現します。
ローマ1:16…福音はユダヤ人を初め、ギリシャ人にも、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力です。
 この救いとは、解放、安全、保護、癒し、健康です。これらは既に主イエス様を信じて救われた時に得ています。
 これらは既に達成している救いなのに、さらに希望を持ち続けるなら、これらを得る事は出来ません。信仰以外で得る事は出来ないのです。
 信仰の後に希望を持ち、罪の性質から解放して下さいと願うなら、それは得ていないと信じる不信仰を現しています。どうぞ交通事故からお守り下さいと嘆願するなら、それを得る事は出来なく自分が願っているのです。どうぞ私を癒して下さいと希望の祈りをするなら、癒しを受けなくしています。健康を希望するなら、今得ていないと信じている事を表明しています。
 なぜなら信じる全ての人と言う条件だからです。主イエス様を信じて救われた瞬間、これらのものは全て救いの中に含まれていました。私たちは救いの信仰を保ち続ける事が出来るだけです。
 救いには、ただ信仰だけが必要とされていて、それに希望、嘆願、神の哀れみを求める事など必要ありません。それは信仰が無い事を表明する事になってしまいます。それは信仰によらないで得ようとする事です。聖書の言っている救いの条件はただ一つ、信仰だけです。しかし、これらの人たちは嘆願、願い、憐れみを求める事などの希望によって将来受けようとしています。
 今日までにサタンは人々から信仰を捻じ曲げ、希望を持たせる事によって神の恵みを得る事が出来なくしてしまいました。これに気づいた人は実に少ないのです。サタンの武器は偽りです。偽りに聞いてはいけません。

2.信仰に告白も必要ない
 ある人は人が信じても、告白しなければ救われないと言います。確かに信じる人はイエス様を告白しなければなりません。それでも救いの条件ではありません。私たちは告白する事によって救われるのではなくただ信仰です。
マタイ10:32 ですから、私を人の前で認める者はみな、私も、天におられる私の父の前でその人を認めます。33 しかし、人の前で私を知らないと言うような者なら、私も天におられる私の父の前で、そんな者は知らないと言います。
 この言葉を永遠の命を得る救いに当てはめる事は出来ません。これは、王国の福音の言葉だからです。これは王国における地位を決める事、魂の救いの事について言っています。王国の福音は、誰でも自分を捨て、主を告白し続けて、自分の願いではなく、主の御心を行う事による報酬として得るものです。
マルコ8:38 このような姦淫と罪の時代にあって、私と私の言葉を恥じるような者なら、人の子も、父の栄光を帯びて聖なる御使いたちと共に来る時には、そのような人の事を恥じます。」
 この言葉も主が来られる再臨の時、つまり王国の時の事を言っています。
マルコ8:35 (魂の)命を救おうと思う者はそれを失い、私と福音との為に(魂の)命を失う者はそれを救うのです。
 魂の命を失うとは、自分の願い、思い、つまり魂の享受を失う事を言っています。自分のメンツを失う事です。今日自分のメンツを保ち、自己保護をする人には王国の地位はありません。王国においてメンツを失い恥を受けます。今日主と共に恥を喜んで受けないなら、王国には預かれません。
 これらのマタイとマルコの箇所は王国の事であって、永遠の福音ではありません。ですから誤解して、人々の前で主を告白しない者は救われない事はありません。告白は救いの条件ではありません。ただ信仰だけなのです。

ローマ10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
 この文を読んで、この箇所だけで解釈して、人は口で告白する事も救いの条件であると決めつける事は出来ません。聖書解釈は、文脈に沿って総合的に行なわなければなりません。この文脈は、ローマ書10章が信仰による義について述べている中の言葉です。ここで言っている信仰とは、信仰は心で信じると同時に口で告白する、つまり信仰の中に信じる要素と告白する要素の二つを含んでいると言っているのです。それは救いが義とする事と救われる事の二つを含んでいる事と同じです。(信仰とは告白です。信仰だけで救われる。)
 この意味は告白だけが独立して存在するのなら救いを得る事は出来ません。つまり信仰の一部としての信仰の告白だから人を救うのです。つまり告白によって人を救う事は有り得ません。ですから、信仰に加える告白が人を救いません。ただ信仰だけが人を救うのです。勿論、信仰には告白が伴います。行動も伴います。それらは信仰の一部であって、信仰プラスではありません。

3.信仰には善行を加える事ではない
 生まれつきの肉の考えは人が救われるなら、善行があるべきだと考えます。
しかし、善行は救いの条件には含まれません。それにも関わらず、実に多くの人たちが救われて、善行をしようとして、出来なく、自分は救われていないと思い、悩み、神との交わりに支障を生じています。さらに自分は失格者だと勝手に思い込み、信仰によるクリスチャン生活に支障を生じさせています。これらは全て、救いはただ信仰のみである事を本当に知らない事と本物の救いの信仰ではないので不安になるのです。
 聖書は救われた信者に良い行いをするように勧めています。
Ⅱテモテ2:2 ですから、誰でも自分自身を清めて、これらの事を離れるなら、その人は尊い事に使われる器となります。即ち、聖められたもの、主人にとって有益なもの、あらゆる良いわざに間に合うものとなるのです。
 確かに善行は救いの後に現れて来ます。しかし、善行は救いの条件に含まれるものではありません。善行の行為が救いに必要ではありません。信仰プラス善行でもありません。
猫の子は生まれた時には歩けませんし、鳴く事も出来ません。しかし、猫の命があるので、教えなくても、言われなくても四足で歩き、ニャーと鳴き、ネズミを捕ります。その理由は猫の命が与えられているからです。人が神の御言葉を実行するのは、神の命が与えられ、その命が成長する事によります。人は生まれつきの肉の命によって生き続けるなら、肉には神の御心を行う事は有り得ません。これが日本中の大問題なのです。霊によって歩め!!!
日本の教会は救う事だけ考えて、永遠の命(原動力)によって歩む事を一切教えないで、肉によって歩み続けているのです。猫の原理を知れ!

ローマ4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものと見なされます。5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義と見なされるのです。6 ダビデもまた、行ないとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。7 「不法を赦され、罪を覆われた人たちは、幸いである。8 主が罪を認めない人は幸いである。」
 もし、行いがあるなら、それは報酬になります。救いは恵みであって報酬ではありません。恵みとは何の働きも無い者が受けるものです。それはただ信仰だけによるのです。神様から受け取るものは全て恵みです。王国は報酬です。
福音書の福音には二種類あり、王国の行いの報酬についてと、恵みの福音の全て恵みによるものです。
 日本中が王国の福音について全く知らないで、福音の条件に混乱が生じているのです。ウォッチマン・ニーを異端と言って王国の福音を切ってしまったので、現代、回復の教会のみが王国の福音に向かって進んでいるようです。しかし、彼らには信仰がまるで見られませんので、掴み取る事が出来ないかも知れません。今はリーによる一位三変化論で異端的ですが気付きません。