聖書の教える本物の信仰

    聖書の教えている信仰とは       世界的聖書教師ケネス・ヘーゲン牧師

<癒しの信仰>
使徒14:7そこで福音の宣教を続けた。8 ルステラのことであるが、ある足のきかない人が座っていた。彼は生まれながらの足なえで、歩いた事がなかった。9 この人がパウロの話す事に耳を傾けていた。パウロは彼に目を留め、癒される信仰があるのを見て、10大声で、「自分の足で、真っ直ぐに立ちなさい。」と言った。すると彼は飛び上がって、歩き出した。
 ある人がこの聖書の箇所をいいかげんに読んでこのように言ったことがあります。「パウロは何て素晴らしくこの人を癒したんでしょう。」しかし、パウロがこの人を癒したのではありません。この男は、パウロ使徒であったから癒されたというのではありませんでした。彼は、パウロの信仰によって癒されたのではありませんでした。この人自身が信仰を持っていたのです。
 パウロは3つの事をしました。
 1.彼は福音を宣べ伝えました。
 2.彼はその男に癒される信仰がある事に気づきました。
 3.彼は「自分の足で、真っ直ぐに立ちなさい。」と言った
 男もまた3つの事をしました。
 1.彼は、パウロが福音を宣べ伝えるのを聞きました。
 2.彼は癒される信仰を持ちました。
 3.彼は飛び上がって歩きました。
 この男はパウロが持っていた何らかの力によって癒されたのではありませんでした。この男は自分自身、癒される信仰を持ったのでした。(9節 パウロが話すのを聞いて)パウロは何を話したのでしょうか?(7節 彼は福音を宣べ伝えました。)パウロは救いの福音と癒しの福音を宣べ伝えたのです。「私は福音を恥じとは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じる全ての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ1:16)
 スコフィールド聖書を見ると、この節の脚注にこうあります。「ギリシャ語とヘブル語の『救い』に相当する単語には、解放、安全、癒し、健康という意味がある。」ですからパウロはこのように言ったのです。「私は(キリストの)福音を恥じとは思いません。福音は解放、安全、癒し、健康を得させる神の力です。」パウロは福音の一部だけを宣べ伝えたのではなく、その全てを宣べ伝えたのです。
 ☆この事から救いの福音を解放、安全、癒し、健康などを含んで伝えるグループを全福音、フルゴスペルと呼び古典ペンテコステ派とは異なる流れがあるのです。新ペンテコステ派とも言われる。
使徒8:5ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。
 6群衆はピリポの話を聞き、その行なっていたしるしを見て、みなそろって、彼の語ることに耳を傾けた。7 汚れた霊に憑かれた多くの人たちからは、その霊が大声で叫んで出て行くし、大勢の中風の者や足のきかない者は治ったからである。8 それでその町に大きな喜びが起こった。
この箇所に記されている偉大な奇蹟は、ピリポがキリストを宣べ伝えた事の結果でした。新約聖書において癒し主でないキリストなどないのです。肉体的な癒しも福音の一部です。今日、癒しの福音がないなら、救いの福音もない事になります。
<行動する信仰>
 P.Cネルソンという何年もバプテスト教会の牧師を務めていた有名な人がこう言いました。「癒しは福音の中の重要な部分である。」1921年のこと、彼がミシガン州デトロイトのある教会で牧会していた頃自動車にひかれた事がありました。医者達は彼の右足をひざのところで切断しなければならないだろうと言いました。たとえ切断しなくてすんでも、ひざが固くなって、動かなくなってしまうということでした。彼が病院のベッドで横になっていると、ヤコブ5:14〜15の聖句が浮かんできました。「あなた方の内に病気の人はいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは病む人を回復させます。主はその人を立たせて下さいます。また、もしその人が罪を犯していたなら、その罪は赦されます。」彼は自分の牧会している教会で、この事を実行しなかった事を主に謝りました。主は彼にこの聖書の言葉を信じているある男の人とその奥さんを思い出させ、彼らを呼んで、祈ってもらうようにと言われました。彼はその通りにしました。この夫妻はやって来て、彼にオリーブ油を塗って信仰による祈りをしました。彼は癒され足は切断せずにすみ、ひざが固くなる事もありませんでした。「信仰は聞く事から始まり、聞くことは神のみ言葉によるのです。」
 何年も前のこと、私が他の宗派(バプテスト)の教会に属する少年であったころ、私は苦しみの病床に伏していました。私はそこで横たわってお婆さんの聖書を読んでいましたが、読めば読むほど多くの事を学びました。私は自分がこれまで聞いてきたのは福音の全てではなく、その一部分に過ぎないということにすぐ気がつきました。聖書を読めば読むほど自分は死ななくてもよいのだということが分かってきました。そして御言葉を学べば学ぶほど自分は癒されるのだと分かってきました。
 もちろん悪魔はそのところにいて、私がそれまでに聞いたありとあらゆる疑いと不信仰の言葉を思い起こさせました。悪魔は癒しはもう終わってしまって、今は起こらないと言いました。(幸運なことに、私は信仰が終わってしまったという話しを聞いた覚えはありませんでした。)私はまた、神は癒したいと思う時だけ癒されるのだとも教わってきました。しかし、これは神は癒す事が゜できないというよりももっとひどい侮辱です。
 私はマルコ5:34で、イエス様が長血を患った女に話しかけているところを読んでみました。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」イエス様は、御自分の力が彼女を治し、完全によくしたとは言われませんでした。彼はこう言われたのです。「娘よ。あなたの信仰が…」私はこの言葉を見た時、彼女の信仰が彼女を治したなら、私の信仰によって私も治るのだと知りました。神に感謝します。その通りになったのです。体の麻痺はなくなり、心臓の状態も正常になりました。そしてそれ以来私はとんだり跳ねたりしながら、完全な福音を余すところなく宣べ伝えているのです。「信仰は聞く事から始まり、聞く事は神のみ言葉によるのです。」☆第2章に続く

暗唱聖句  そのように、信仰は聞く事から始まり、聞く事は、キリストについての(神の)み言     葉によるのです。(ローマ10:17)
中心真理  神は誰もが信仰を得られるような方法を備えて下さった。   faith_hoshino