カソリックの預言者の受けた啓示  バスーラ・ライデン姉妹

<メッセージの語る事>
 ヴァッスーラの書き留めるメッセージ集には、現代に生きる私たちへのイエスの直接の語りかけが生き生きと表現されています。その内容には、これまでの啓示と共通するものもあれば、ヴァッスーラ特有のものもあります。いくつかのポイントをまとめてみます。
1)教会の一致
<一致のためのキーワード>
 ヴァッスーラの啓示の特徴ともなっているメインテーマが、「私は各教会を一致させるために来た」というメッセージです。周知のように、現在教会はいくつもの派に分裂し、仲違いしている状態が続いています。それは「互いに愛し合いなさい」という神の命令とは真っ向から対立する、腐敗して力を失った教会の姿であり、その為多くの教会は愛を放つ場所ではなく、議論ばかりの冷たい場所となりつつあります。宗教という、人間の自我の根本に関わる事柄に対して、人は自分を正しいとして保身をはかり、他を攻撃し、見下そうとする性(さが)があるようです。
これに対してイエスは「教会は神の身体である」として、教会同士の分裂や争いは、その身体を傷つけ、不具にする事であると語り、互いに毒矢を放っている現状を心底悲しまれています。そして教会一致のための重要なキーワードを与えています。それは「みなが屈み、折れる事…自分の利益ではなく神の意思が何であるかを祈り求め、悔い改め、自己中心の意向を捨て去ること」…一言で言えば、「互いに愛し合う事」です。
「一致を求めるなら、あなたがた全員が曲がらなければならない」
「教会の中になぜ不調和があるか知っているか?夜導く灯火を持たないで歩いていたからだ。光である私を探し求めなさい。そうするならあなた方を導く。偽善と頑なさを捨て去り、柔和、謙遜であるように。心を開いて私のいのちの雫に満たされなさい。」
「この者たち(=教会たち)は私のやり方を忘れてしまった。私が謙遜、柔和で愛に満ちている事を。あなたに求めるのは愛だけである。私があなたを愛するように、互いに愛し合いなさい。どうして私の教会の中で闘うのか?…このように毒をもった宣言文を配布するか?…私の目は互いに非難し合うのを見飽きた、愛と平和を与え、人を裁くようにと教えた事はないのに。…私の光を受けていながら兄弟を憎む者はまだ闇の中にいる、とは言わなかったか?『祭壇に捧げものを運ぶとき兄弟の恨みを思い出したなら、すぐそこに捧げものを置いて、兄弟を探しにゆき、まず和睦してから澄んだ心で戻り、あなたの捧げものを献上しなさい。』」
「私が彼らを愛するように互いに愛し合いなさいという我が命令に彼らが従い、そして謙遜を知っていたなら今日私の身体は調和の内に支配していただろう。彼らが…身を低くして互いの足を洗い合った事があるだろうか?屈みなさい!一つになれるように屈みなさい!…愛があなた方を一つにする。」
「いつでも、どの教会であっても私の許に来る事ができる、他の人々のように区別してしまわないように。それらは皆私に属している。私は唯一の神であって一つの身体を持っている。」
<異端に対して>
 特に印象に残ったのは、エホバの証人に関わる部分です。(一般にキリスト教では、イエスを神と認めないエホバの証人を異端だとしています)ヴァッスーラはスイスで、エホバの証人の婦人たちの訪問を受けます。彼女たちは断固とした意志をもってカトリックを攻撃しました。再びエホバの証人の訪問日が来て気が重くなったヴァッスーラは「この婦人たちに何て言えばいいのでしょう?」と尋ね、以下の対話が続きます。
(イエス)「この者たちを愛しなさい。私が頼んだようにして、彼女たちを大切にしなさい。皆私の子どもたちです。」
(ヴァッスーラ)「けれど…彼女たちは世界中で自分たちだけが正しい宗教で、他の全ては100%間違いだと言いたげに見えるのです。」
(イエス)「愛する者よ、この婦人たちを愛しなさい」
私たちは、自分のところの宗教(教派)が正しいと思うと、それとは違うものを攻撃したり、あれはどこが間違っているなどと言いがちです(口に出しても出さなくても)。そしてそれによって自分は正しい事をした、神の味方をしたと思ってしまいます。ところがこの場面でイエスは、エホバの証人は正しいとも間違っているとも一言も言わずに、ただ「愛しなさい」と繰り返し語っているのです。
私たちは歴史上、いくつかの宗派に「異端」とレッテルを貼って攻撃し、口をきわめて間違いを指摘し、それによって自分たちは聖書の言葉を擁護しているかのような錯覚に陥ってきました。しかし神はそんなことを「よくやった」と誉めてはくれないのです。神はいつも、「その者たちを愛したか?足を洗い合ったか?」と問いかけてくるのです。これは、信仰者の多くが忘れている事であり、常に私たちが心に留めておかねばならないことでしょう。
誰もが皆神のこどもたちであり、神はどの子どもであれ、他の子どもに非難され、いじめられるのを望みたまわないのです。
しかし、聖職者の多くは、それでは多くの者たちが異端に惑わされてしまうと心配します。それについてもこのような印象深いメッセージがあります。
「あなたを迫害する者たちを祝福し、弾圧する者たちのために祈り、悪を愛でお返ししなさい。…誠実さが悪に対して勝利すると皆に伝えなさい。へりくだりが悪魔を無力にし、愛はサタンの化けの皮をはがす。」

2)貧しい者、無である者、幼子を神は喜ばれる
ヴァッスーラのメッセージの中で特に強調されているのが、私たち信者がみな「幼子のようでありなさい」という事です。これはこれまでの啓示にも共通している内容ではありますが、イエスの直接の語りかけはとても印象深いです。ヴァッスーラはイエスと出会うまではまったく俗世間に浸って暮らし、神学や宗教についてもほとんど何も知らない素人でした。しかしヴァッスーラに語りかけたイエスは、彼女を選んだ理由として「あなたの無(または、みじめさ)が私を喜ばせる」と繰り返し語っています。
伝統的な宗教組織の中では、今なお、神が語りかけ、お近づきになるのは、身も心も神に捧げきった、聖職者や修道者たちのみであり、心が清くない者、あるいは宗教的でない者には、神は近づかれないという固定観念があるようです。
しかし2000年の昔、イエスが近づかれたのは特に取税人、売春婦、罪人たちであった事が思い起こされます。律法をくまなく守り、清らかな生活を送っていると自認していた律法学者、パリサイ人たちは、逆にイエスを受け入れる事ができなかったのです。
神は全能であるため、ある人間を用いてご自分を顕わされる時には、その人間の限られた才能や徳などを必要としないのです。その人間がみじめで何もない白紙の者であればあるほど、その人は全てを神から受けようとして神により頼み、すっかり自分を明け渡すので、神は思いのままに絵を描くことができるからです。神はどんな石ころをも素晴らしい器と変えることがおできになり、人間の目から見て無価値であればあるほど、それを美しいものに作り替えた神の愛と栄光が現れるからであると、メッセージは語っています。
「みじめさは私をひきつける。…なぜなら、形造るのを許してくれるからです。」「我が教会に対する基本的な知識を何ら持たない為、白紙のカンバスのように、主である私が私だけのもので埋め尽くす事が自由にできた。書かれたものが全て私の口から出ていることが明らかとなる為に、全ての業は私によってなされる」 「知恵は私から来ると理解しなさい。…無のままでいなさい。そして私にあなたの欠けている全てとならせなさい。…私を運ぶ者となりなさい。あなたを通して私は自身を顕わす。」

3)愛の神、すぐそばにいる神
これまでの時代にもいわゆる「啓示」というものがありましたが、どの時代の啓示も、神が愛である事、生きて今この瞬間も働いておられる事を共通して教えています。言い換えれば、神を忘れた人々に、神がおられ、私たちを愛しておられる事を思い起こさせる為に、神は時代ごとに啓示を通して、繰り返し同じメッセージを語り続けているとも言えます。
人間には聖書その他宗教に応じて経典が与えられましたが、それだけでは正しく歩けない人間たちのために、神は今日も、語り続けているというのです。
聖書以外の啓示を全く認めない人々、神は清らかな聖職者にしか近寄らないと信じている人々など、人間には神に対するいろいろな思いこみがありますが、ヴァッスーラに現れた神はそのどちらをも否定しています。悪にやられて倒れている人々に、手を差し伸べない神があろうか?心を病む人々こそ、神を最も必要としている人々ではないか?…そうしたメッセージからは、愛の神のイメージが改めて具体的に浮かび上がってきます。
ヴァッスーラ自身が、そもそも敬虔でもない、世俗的な生活をにどっぷり遣っていた人間でした。ヴァッスーラを選ぶ事で、神はどんな人間にも近づき、今なお一人一人の心の門を叩き続けている愛の姿を示されたのです。神が私たち人間に無関心なのではなく、私たちが神を呼ぶ事を忘れているというのです。
「すぐそばにいると、子どもたちが気づいてくれさえしたら、私は現存し、すぐそばにいる。どこにいても、どんな時にも、この事に気づいたなら、もっと転ばないであろう。罪も犯さないであろう。伝えなさい、親密になってほしいと」
「私は霊的な霊魂や司祭、修道者を他の子供たち同様に愛している、罪人や私を迫害する者たちを含めて皆を愛しているのです。私は彼らが何であるか、その生涯にどれだけ知識を得たかと関係なく、皆に近づく。…私は自ら選んで私の花嫁となった人々だけでなく、私を知らない人々の許にも来て彼らを選ぶ、どの戸口も訪ねては戸を叩く。私は戸を叩き、聞こえるのを願いながら待っている。全ての霊魂が私を受け入れ、喜び迎えてくれるのを首を長くして待っている。あなた方皆を愛しているのです。」
「私を探し求める者は本当に私を見いだす。叩きなさい。そうすれば本当に戸を開ける。さあ、私の現存を思い出させよう」
「どの霊魂もみな、怖がらずに近づいてくるように。私が両手を開いてこの子どもたちを受け入れる事を知らせなさい。愛する父なるがゆえ、いかに石をも我が熱心な弟子にする事ができるかを皆が知るように。私がいかに霊魂を解放し、真の自由を与えるかを知るように。」
「私が十分そばにいないと、あなたは間違って信じてしまうが、本当はこういった時こそ一番近くにいるのです。あなたは決して一人っきりではない、決して!」

<メッセージは自分宛てのものとして読むこと>
メッセージには、ヴァッスーラへの神の愛の言葉がいたるところにちりばめられており、まるで恋文のようです。そして読んでいて、ヴァッスーラだけがどうしてこんなに愛されているのか、という思いが湧かない事もありません。しかし勿論、イエスはヴァッスーラをひいきしているわけではありません。ヴァッスーラへの熱烈な愛の言葉は、そのまま全ての人に向けられているのです。ヴァッスーラ自身も、「このメッセージの『ヴァッスーラ』という名前は、読者がそのまま自分の名前に置き換えて読んで下さい、と書いています。
「欠点と罪しかないとしても、私にくれるように。そうしたらそれらを清める。彼らの重荷を取り除き、許しを与える。非難はしない、愛するだけです。倒れてしまい、私のもとに赦しを求めてくる人たち皆を愛し、その愛はさらに一層深まる。たとえ何百万回倒れようとも決して退けない。私は赦そうとそこにいて、彼らの邪悪さを私の血潮で洗い清めよう。彼らを赦す事に決して疲れてしまわない。愛と慈悲の神だからです。私は弱い者に対する憐れみに満ちている。…非難の口調やきつい言葉はどのようなものであっても私からではないと知るように、私は愛、愛、愛なのです。私の心は愛の深淵。
極悪人であってもあなた方を愛している。たとえ私を軽蔑していようとも、愛していると私は言う、私は憐れみに満ちた神であって、いつもあなた方を迎え入れ、心の中に住まわせる用意がある。娘よ、多くの人が目覚めないまま、ゆっくりと罪の闇底に深く沈んでゆくのを見ているのは何と辛いか。その悪行が霊魂に及ぼす影響を知りさえするなら!」

      信仰の言葉ミニストリーズ faith_hoshino