携え上げられるには何を信じるのか

  携え上げられるには何を信じるのか  (ブロク記事)

 私は1968年に19才で主イエス様を信じて救いを受けました。その時から何度も堕落して、教会に行かなくなりました。しかし、私の心の中に私自身ではなく、何か別の存在がおられて、こんな事をしているなら、天国にいけなくなると言う気が心の中から静かな思いが湧き上がって来ました。
 これが主イエス様が言われた、「私と全く同じ、別の助け主(アロス・パラクレートス)をあなた方にお与えになります。」ヨハネ14:16節に書かれている通りです。私は生まれつき罪人であり、罪しか犯す事が出来なく生まれました。なぜなら、私たち世界中の全人類は創世記のアダムの中に共に私自身もいて、神に反逆し、サタン(悪魔)の支配下に陥りました。ですから、霊が死に、私は神が霊であられるので、神が全く分らなくなってしまいました。しかし、19才の学生の時、教会に行くようになり、主イエス様が私の罪の為に罪を背負い、罪の刑罰である十字架に私の身代わりにかかられ、罪の刑罰の死刑となって下さいました。そして三日目に甦りました。この事を心から信じるなら、私は救いを得る事が出来ると聖書は言っています。この事によって聖書は神の王国に入る、つまりこれは神の王国の福音と呼ばれています。
 私は神が霊であり、私はアダムの中にいて、霊が死に、魂中心、つまり精神を中心として、肉体を持って行き続け、ネコや犬、獣として罪しか犯す事のできない、見せ掛けの人間として生まれました。この事をヨハネ福音書3:6は明確に書いています。「肉によって生まれた者は肉です。」肉とは霊が死に、魂と肉体によって行き続けて来た、人類は肉体の欲望と精神の欲望だけに従って生き続け、その状態を聖書は肉(サルクス)と呼んでいます。
 猫や、犬のように性欲を満たし続け、金欲を満たし続け、名誉欲を満たし、精神の欲望を満たすだけの一生を送るだけの人生が人間と成り果ててしまいました。私が学校に行ったのは、一流の仕事の名誉欲の為であり、お金を多く稼ぎ、私の快楽を満たす為だけに他なりませんでした。私は獣でした。
 私は聖書を読み、その原因が創世記のアダムにある事を明確に知りました。
そして何よりも嫌なのはサタン(悪魔)の支配下に常にい続ける事でした。それが今聖書のソドムとゴモラの状態よりもさらに悪くなった人間の姿で、情欲のおもむくまま、名誉欲を満たすだけ、精神の快楽だけを満たし続ける一生が今の全人類となっています。私の家の回りに野良猫がいますが、この野良猫の一生と何ら代わらない一生を私たち人間も送っています。
 この状態を聖書は肉による歩みと呼んでいます。そして肉に従って歩み続けるなら、神の王国を継ぐ事がないと書かれています。ガラテヤ書です。

ガラテヤ5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、21 妬み、酩酊、遊興、そういった類のものです。前にも予め言ったように、私は今もあなた方に予め言っておきます。こんな事をしている者たちが神の国(王国)を相続する事はありません。
 もう一度繰り返して言います。肉とは霊が死に、神の最初の創造から堕落して、サタン(悪魔)の支配下に落ち、サタンの性質が入れられた状態の人間の事であり、罪の創始者であるサタンの性質に束縛され、支配され、肉欲の奴隷として生き続ける事を言っています。
 これが主イエス様がヨハネ3:6で言われた「肉によって生まれる者は肉です」簡単に言うなら、肉体の欲望を満たして生きている、犬や猫のような状態の人間の事です。私のブロクにもメールアドレスを残し、クリックするとポルノが出て来るのはこの肉の人を表現しています。犬や猫と何ら代わりません。これを罪と聖書は呼んでいます。犯罪の事ではなく、ハマルティアと言うギリシャ語で、意味は「的外れ」と言う事です。人間として的が外れて生きていると言う意味が聖書の言う「罪」です。
 この罪には神は刑罰を与えると書かれています。このまま死ぬなら、地獄の刑罰が待っているだけです。そんな事お前に分る筈がないと言うなら、地獄の啓示を私は多くのブロクに掲載し続けています。世界中には実に多くの人たちが地獄を見てきて、証言し続けています。
 もし人間の創造者がいて、人間が罪を犯して、裁かないのなら、神ではありません。そこには義がなく、公正がなく、公義がないのです。
 創造者、神が存在するなら、それは義であり、聖であり、公義、公正であるのです。
 ですから聖書の申命記28章には悪には呪いがある事が書かれています。
三つの呪いがあり、①霊的死の呪い、地獄に落ちる呪い。 ②病気の呪い。
③貧乏の呪い。 この三つの呪いを受ける事が書かれています。
 しかし、神は愛でもあります。創造しておいて、悪いから地獄送りでは無責任です。そこで創造者、神は人の罪を御子である主イエス様に背負わせ、このお方が人になった事により、創造者が人になったとは、人の全てをと一つ、合一する事です。そして、罪の刑罰の為に十字架の死刑になりました。
 つまり私の罪は刑罰によらなければ、無罪とはなりません。しかし、罪の刑罰とは神は死刑であると決められました。私が罪の刑罰の死刑になるなら、もはや生きる事が出来ません。しかし、私の創造者が人になられ、人と合一し、私と一つになり、私の罪の為に十字架の死刑の刑罰になられるなら、私が罪の刑罰を受け、十字架の死刑に処せられた事と同じです。
 これが2千年前のキリストの十字架の死刑であり、これが神の義の罪の刑罰であり、神の愛の行為です。この中に神の義と神の愛が現されました。もし人がこの事を信じるのなら、その信仰によって、人は罪が許される、そして永遠の命が与えられると聖書は書かれています。ヨハネ3章の御言葉
ヨハネ3:16 神は、実に、その一人子をお与えになった程に、世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びる事なく、永遠の命を持つ為である。17 神が御子を世に遣わされたのは、世をさばくためではなく、御子によって世が救われる為である。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は神の一人子の御名を信じなかったので、既に裁かれている。19 その裁きというのは、こうである。光が世に来ているのに、人々は光よりも闇を愛した。その行ないが悪かったからである。20 悪い事をする者は光を憎み、その行ないが明るみに出される事を恐れて、光のほうに来ない。21 しかし、真理を行なう者は、光のほうに来る。その行ないが神にあってなされた事が明らかにされる為である。
 なぜ主イエス様を信じる者が救われるのか?
 その理由は悪を行なう者が善を行う者になるのではありません。創世記では善悪りの知識の木からとって食べるなら、アダムは死ぬと神は仰せられました。善も罪であり、悪の罪である。ハマルティア、的が外れています。
 的はどのようにしたら、合うと聖書全巻から書かれているのか?
 それは神が霊であられるから私たちも霊となる事です。それが主イエス様の言われた言葉であり、ヨハネ3:5節の言葉です。
ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「真に、真に、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事ができません。3:6 肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。7 あなた方は新しく生まれなければならない、と私が言った事を不思議に思ってはなりません。8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、その通りです。」
 全人類の堕落の問題の本質は善と悪の知識によって、魂、つまり精神を中心に肉体を持って生きる事なのです。それは獣と同じ行き方なのです。
 意味は神抜きに生きる事であり、神に創造された者なのに、神と独立して自分の善を行って、神無視で行き続けるのは的が外れている、つまり罪であると聖書は言っているのです。人は聖書を良く読まなければ、善を行って何が悪いと開き直り、神抜きで、神に何も無関係に生きようとします。
 このような生き方をいくらしても、天の王国には入る事が出来ません。
主イエス様が言われた事は、ヨハネ3:5 イエスは答えられた。「真に、真に、あなたに告げます。人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国に入る事ができません。
 主は善を行う者が神の国に入ると言われてはいません。元々の創造である神は霊であり、人も霊として創造される事により、神と一致して、一つになり生きる者が王国に入る者なのです。
 神は霊です。私たちも霊として主イエス様を信じて救われるなら、新しく生まれます。
 聖書全巻から「何が生まれる」かを調べるなら、この答えが分かります。
聖書が言う、生まれるとは、神と一つに生きる事であり、死ぬとは神と分離して生きる事であると本気で聖書を読むなら分ります。
 この点の詳細はウォッチマンニー全集に詳しく書かれています。それをお読み下さい。ここでは死についての定義の御言葉を上げます。
ヤコブ2:26 魂を離れた身体が、死んだものであるのと同様に、行ないのない信仰は、死んでいるのです。
 ここには二つの死、聖書の定義する死が書かれています。一つは魂と身体が分離したものは死である。二つ目は行いのない、信仰は死んでいる。

<どうすれば王国に入れるのか?> 
 最後にどうすれば、王国に入れるのかを聖書全巻から考察して見たいと思います。それには主イエス様が言われた言葉がその答えです。
マタイ7:21 私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行なう者が入るのです。22 その日には、大勢の者が私に言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』23 しかし、その時、私は彼らにこう宣告します。『私はあなた方を全然知らない。不法をなす者ども。私から離れて行け。』
 この主イエス様の答えの通りです。なぜなら、父なる神様と言えども、御言葉から外す事が絶対出来ません。もし外した瞬間に神は偽り者となり。神ではなくなってしまいます。つまり父なる神は御言葉の実にその通りに行わなければならないのです。神は御言葉と完全に一つなのです。
ヨハネ1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神と共にあった。ことばは神であった。1:2 この方は、初めに神と共におられた。3 全てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
5 光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。

答えの第一は御言葉が行われる。御言葉から外れるなら、王国には入れない。
 
 さらにもう一つ答えがあります。それはガラテヤ書にあります。
ガラテヤ5:16 私は言います。御霊によって歩みなさい。そうすれば、決して肉の欲望を満足させるような事はありません。17 なぜなら、肉の願う事は御霊に逆らい、御霊は肉に逆らうからです。この二つは互いに対立していて、その為にあなた方は自分のしたい事が出来ないのです。
ローマ8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。13 もし肉に従って生きるなら、あなた方は死ぬのです。しかし、もし御霊によって、身体の行ないを殺すなら、あなた方は生きるのです。14 神の御霊に導かれる人は、誰でも神の子どもです。
ガラテヤ5:19肉の行い……こんな事をしている者たちが神の王国を相続する事はありません。
 肉とは生まれつきの性質によって生きる事であり、肉は御霊によって身体の行いを殺すなら、生きると書かれています。
 つまり第二の王国に入る答えは御霊によって生きる者です。
なぜなら、実を結ばない木は切り倒されると書かれています。御霊は私たちの中から実を結びます。
ガラテヤ5:22 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。24 キリスト・イエスにつく者は、自分の肉を、様々の情欲や欲望と共に、十字架につけてしまったのです。25 もし私たちが御霊によって生きるのなら、御霊に導かれて、進もうではありませんか。

<見分け>
 これが本物か偽物かを御言葉で見分ける事が出来ます。
マタイ7:16 あなたがたは、実によって彼らを見分けることができます。ぶどうは、いばらからは取れないし、いちじくは、あざみから取れるわけがないでしょう。17 同様に、良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。18 良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。19 良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。20 こういうわけで、あなたがたは、実によって彼らを見分けることができるのです。21 わたしに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天におられるわたしの父の御心を行なう者が入るのです。

 結論が出たようです。主イエス様の十字架で達成した霊的事実は全て御言葉です。つまり御言葉は主イエス様の命と血によって達成したものです。その御言葉と聖霊様は一つです。その聖霊様に導かれ、指示され、禁止され、教えられて歩み続けるのなら、全能なる神である聖霊様は父の御心だけ0導かれます。つまり父の御心を行い。、御霊の実を結ぶ者となり、携挙とは収穫であり、初穂の収穫ですから、実の収穫なのです。
マタイ7:21 私に向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御心を行なう者が入るのです。
 私はこのように信じています。吟味してお読み下さい。栄光在主!

11.3.11日
      真理の言葉ミニストリー 星野明義 和子